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そのガチャ、ワンチャン。

最近よく「○○ガチャ」という言葉を耳にする。
親ガチャ、子どもガチャ、友達ガチャ、担任ガチャ、配属ガチャ、時代ガチャ。。。

カプセルのおもちゃの、ガチャガチャになぞらえて、
自分にはどうしようもできない、自分では選択できない”運”で決まっていることを表すことばである。

私は、実際には人生のほとんどは選択不可能
つまり、ガチャが基本で、
たまに、選択できることが生じるのかな、と思っている。

そもそも、この世に誕生することを自分で選んだわけではないし、
誕生する国も、誕生する家庭も選んだわけではない。

だから、そういう意味で、人生の初期設定はガチャで、
そのうえで、少しだけ自由に意思反映できる隙間が与えられている、
そんな感覚である。

かつての日本は、身分制度もあり、
個人に与えられている、その”隙間”的な要素は少なかったように思う。
その時代を生きているわけではないから、実際のところは分からないが、
少なくとも、学校で学んだ歴史の授業では、そんなことを言っていたような気がする。

それに比べると現代は、個人の自由は拡大し
同時に「自由に選んでるんだから、上手くいくもいかないも、自分の責任だよね?」的な感覚が強まっている。


話は変わるが、私は、大前提、
人生は、できるだけ広く、長く楽しみながら死に向かっていく時間だと考えている。だから、自分自身の快適値は、できるだけ高くしていたいし、快適値が下がる要素は、なるべく避けて通りたい。

そのために、自分が見い出したマインドが2つある。
1つは、「そのまま」を受け入れること。
現状を肯定するでも、否定するでもない。
スーパーで迷子になっていた男の子がいる。
彼は、どうして迷子になっちゃったんだろうか。かわいそうだな。親が彼をちゃんと見てなかったのではかろうか。これには自分の判断が入っている。

そのままの世界には、こうした判断はなくてよくて。
ただ、男の子が迷子になっちゃったんだな。
という事実を受け入れることにとどまる。

もう1つは「現状肯定」。
目の前の不満を、捉え方を変えて受け入れていこうというマインドだ。
これも、”受け入れる”という切り口で言えば、共通しているが、
自分の判断・解釈の下、目の前の現状に不満を持っている状態で、
このままだと、その判断・解釈を変えるのは困難で。
だから、自身の捉え方を変えることで対応して、自分にとっての意味づけを変えよう。といったところである。

これは、自分の目の前の不満を解決しているわけではなく、起きている事象・事実は何も変わっていないから、現状肯定したとて、世の中は何もよくはならないが、自分の不快を避けることは成功する気がする。


だから何、という結論があるわけではないが、
仮に、自分が望んだガチャが、自分に当たらなかったとしても
ワンチャン、自分の捉えようで、どうにかなる可能性も秘めているのではないかと、私は思う。

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