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【随想】宮沢賢治『ツェねずみ』

 鼠捕りは、全体、人間の味方なはずですが、ちかごろは、どうも毎日の新聞にさえ、猫といっしょにお払い物という札をつけた絵にまでして、広告されるのですし、そうでなくても、元来、人間は、この針金の鼠とりを、一ぺんも優待したことはありませんでした。ええ、それはもうたしかにありませんとも。それに、さもさわるのさえきたないようにみんなから思われています。それですから、実は、鼠とりは、人間よりは、鼠の方に、よけい同情があるのです。けれども、大抵の鼠は、仲々こわがって、そばへやって参りません。

宮沢賢治『ツェねずみ』(童話集『新編 風の又三郎』)新潮社,1989

 次の朝、下男が来て見て、ますます怒って云いました。
「えい。ずるい鼠だ。しかし、毎晩、そんなにうまくえさだけ取られる筈がない。どうも、このねずみとりめは、ねずみからわいろを貰ったらしいぞ。」
「貰わん。貰わん。あんまり人を見そこなうな。」と鼠とりはどなりましたが、勿論、下男の耳には聞えません。

同上

 付喪神、普通は心を持たぬ無機物が、長い年月を経て精霊と化し心を持つようになる。心を込めて物に接していると自分の意識が物に乗り移る。まるで生物に接するように、労ったり、声を掛けたり、触れたりしている内に、自分が物を思っているのか、物が自分を思っているのか、有機生命体と無機物の差異が分からなくなり、とうとう、同一視するようになる。強い思いは自己暗示を生み、現実と妄想の壁を突破する。端から見れば狂人の筈だが、皆が等しく同時に狂うこともある。そして人はいつでも常なるもの多数なるものを正常と見做す。狂奔の成せる技、ヒステリー、パニック、集団催眠。全てが異常であるとき、最早異常は異常ではなく正常となる。物が口をきく訳が無い。それは当たり前だが、当たり前の意味がひっくり返ったならば、物が口をきくことも有り得てしまう。付喪神は単なる愛護節用精神のマスコットではない。もったいないお化けではない。擬人化は楽しい遊びであり、世界を解する上での有用な道具でもある。人でないものを人の近くに寄せ、人の匂いを付けて人と見做す。さすれば如何に難解不可思議な現象であろうと、するりと心に滑り込ませることができる。言葉を知らぬ子供は極めて自然にそれを為す、それが唯一の理解方法だから。理屈が邪魔な時もある。理屈は、所詮方便に過ぎない。言葉、感覚、それらを超え、見えているものを疑い、見えないものを信じる。即ち、純粋な直感、童心。しかし、直感を言葉以外の形にするには、どうしたらいいのだろう。

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