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【随想】太宰治『猿面冠者』

 ――この小説は徹頭徹尾、観念的である。肉体のある人物がひとりとして描かれていない。すべて、すり硝子越しに見えるゆがんだ影法師である。 (中略) 作者は、ファウストの一頁も、ペンテズイレエアの一幕も、おそらくは、読んだことがないのではあるまいか。失礼。ことにこの小説の末尾には、毛をむしられた鶴のばさばさした羽ばたきの音を描写しているのであるが、作者は或いはこの描写に依って、読者に完璧の印象を与え、傑作の眩惑を感じさせうとしたらしいが、私たちは、ただ、この畸形的な鶴の醜さに顔をそむける計りである。

太宰治『猿面冠者』(短編集『晩年』)新潮社,1947

 若者の全能感、それは現実に踏み出した瞬間あっさり打ち砕かれる。何であれ、挫折は必ずするものだ。挫折を知らぬは挑戦を知らぬに等しい。進もうとすればこそ転ぶのだから。

 まずは模倣でよい。模倣こそ技量を磨く最高の訓練だ。言葉では伝わらないこと、説明し切れないことがある。そもそも他人の言葉の真意を完璧に了解することなど出来ない。真似は動きで動きは現実だ。頭の中はどうあれ現実に良い動きをしているのなら、それは技量が高いということだ。同じ動きをすれば同じ結果となるのだから。理屈は後から考えればいい。見取り稽古の本質はそこにある。師匠は教え渋っているのではない、むしろ正確に教えようとしているからこそ口には出さない。師は「見ろ」と言う、「聞け」とは言わない。

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