裏切りや信頼の形は人によりけり。嘘を裏切りと思う者もいれば、信頼と思う者もいる。裏切りを卑劣と思う者もいれば、優しさと思う者もいる。愛を裏切りで示す者もいれば、誠実で示す者もいる。更にそれらは、誰に対するかでも変わってしまう。配偶者への嘘と、親への嘘と、友人への嘘とでは、自ずから意味も目的も異なる。だが人は自分の観念や、自分の常識の中でしか生きられない、判断出来ない。あらゆるものに寛容や理解を示そうとすれば、依拠すべき価値観を失い、自我が崩壊する。自分を自分として認識し続ける為には、どうしたって偏見的価値観が必要なのである。
現代人は、皆に共通の感覚を手探りで集め、異質な人間とならないように警戒し、正義とされる言葉でのみ自己を表現する。そうする事を余儀なくされている。自己の言動に責任を持たず、一方他人には言動の責任を求める。どれだけ弱いか、どれだけ少数派であるか、且つ、どれだけ共感を集められるかが人間の価値を決めるかのように、錯覚させられている。未だかつて、弱さを競い合う生物などいた試しがあるだろうか。新しい事が良い事ではない。今までにない事が正しい事ではない。良いものが良いものであって、正しいものが正しいものだ。共感という体裁で自身の思考を放棄していないか。斬新という体裁で評価する事を放棄していないか。裏切りは、悪だと、言い切る勇気を持て。状況に拠るだの、その人なりの表現がどうこうだの、その理屈は分かるし、ある程度は正しいのだろう。少なくとも、世間的には正しい。だが、やはり、それでも、裏切りは悪だと、言い切るべきなのだ。