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【随想】芥川龍之介『藪の中』

 何、男を殺すなぞは、あなた方の思っているように、大した事ではありません。どうせ女を奪うとなれば、必、男は殺されるのです。唯わたしは殺す時に、腰の太刀を使うのですが、あなた方は使わない、唯権力で殺す、金で殺す、どうかするとお為ごかしの言葉だけでも殺すでしょう。成程血は流れない、男は立派に生きている、――しかしそれでも殺したのです。罪の深さを考えて見れば、あなた方が悪いか、わたしが悪いか、どちらが悪いかわかりません。(皮肉なる微笑)

芥川龍之介『藪の中』(短編集『地獄変・偸盗』)新潮社,1968

 ――その水干を着た男は、わたしを手ごめにしてしまうと、縛られた夫を眺めながら、嘲るように笑いました。夫はどんなに無念だったでしょう。が、いくら身悶えをしても、体中にかかった縄目は、一層ひしひしと食い入るだけです。わたしは思わず夫の側へ、転ぶように走り寄りました。いえ、走り寄ろうとしたのです。しかし男は咄嗟の間に、わたしを其処へ蹴落としました。丁度その途端です。わたしは夫の眼の中に、何とも云いようのない輝きが、宿っているのを覚りました。何とも云いようのない、――わたしはあの眼を思い出すと、今でも身震いが出ずにはいられません。口さえ一言も利けない夫は、その刹那の眼の中に、一切の心を伝えたのです。しかも其処に閃いていたのは、怒りでもなければ悲しみでもない、――唯わたしを蔑んだ、冷たい光だったではありませんか?

同上

「ではお命を頂かせて下さい。わたしもすぐにお供します」
 夫はこの言葉を聞いた時、やっと脣を動かしました。勿論口には笹の落葉が、一ぱいにつまっていますから、声は少しも聞えません。が、わたしはそれを見ると、忽ちその言葉を覚りました。夫はわたしを蔑んだ儘、『殺せ』と一言云ったのです。わたしは殆ど、夢うつつの内に、夫の縹の水干の胸へ、ずぶりと小刀を刺し通しました。

同上

が、盗人はそれからそれへと、巧妙に話を進めている。一度でも肌身を汚したとなれば、夫との仲も折り合うまい。そんな夫に連れ添っているより、自分の妻になる気はないか? 自分はいとしいと思えばこそ、大それた真似も働いたのだ、――盗人はとうとう大胆にも、そう云う話さえ持ち出した。
 盗人にこう云われると、妻はうっとりと顔を擡げた。おれはまだあの時程、美しい妻は見た事がない。しかしその美しい妻は、現在縛られたおれを前に、何と盗人に返事をしたか? おれは中有に迷っていても、妻の返事を思い出す毎に、瞋恚に燃えなかったためしはない。妻は確かにこう云った、――「では何処へでもつれて行って下さい」(長き沈黙)

同上

――と思うか思わない内に、妻は竹の落葉の上へ、唯一蹴りに蹴倒された。(再、迸る如き嘲笑)盗人は静かに両腕を組むと、おれの姿へ眼をやった。「あの女をどうするつもりだ? 殺すか、それとも助けてやるか? 返事は唯頷けば好い。殺すか?」――おれはこの言葉だけでも、盗人の罪は赦してやりたい。(再、長き沈黙)

同上

おれは縄を解きながら、じっと耳を澄ませて見た。が、その声も気がついて見れば、おれ自身の泣いている声だったではないか? (三度、長き沈黙)

同上

 裏切りや信頼の形は人によりけり。嘘を裏切りと思う者もいれば、信頼と思う者もいる。裏切りを卑劣と思う者もいれば、優しさと思う者もいる。愛を裏切りで示す者もいれば、誠実で示す者もいる。更にそれらは、誰に対するかでも変わってしまう。配偶者への嘘と、親への嘘と、友人への嘘とでは、自ずから意味も目的も異なる。だが人は自分の観念や、自分の常識の中でしか生きられない、判断出来ない。あらゆるものに寛容や理解を示そうとすれば、依拠すべき価値観を失い、自我が崩壊する。自分を自分として認識し続ける為には、どうしたって偏見的価値観が必要なのである。
 現代人は、皆に共通の感覚を手探りで集め、異質な人間とならないように警戒し、正義とされる言葉でのみ自己を表現する。そうする事を余儀なくされている。自己の言動に責任を持たず、一方他人には言動の責任を求める。どれだけ弱いか、どれだけ少数派であるか、且つ、どれだけ共感を集められるかが人間の価値を決めるかのように、錯覚させられている。未だかつて、弱さを競い合う生物などいた試しがあるだろうか。新しい事が良い事ではない。今までにない事が正しい事ではない。良いものが良いものであって、正しいものが正しいものだ。共感という体裁で自身の思考を放棄していないか。斬新という体裁で評価する事を放棄していないか。裏切りは、悪だと、言い切る勇気を持て。状況に拠るだの、その人なりの表現がどうこうだの、その理屈は分かるし、ある程度は正しいのだろう。少なくとも、世間的には正しい。だが、やはり、それでも、裏切りは悪だと、言い切るべきなのだ。

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