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【随想】太宰治『鷗』

歯が、ぼろぼろに欠け、脊中は曲り、ぜんそくに苦しみながらも、小暗い露路で、一生懸命ヴァイオリンを奏している、かの見るかげもない老爺の辻音楽師を、諸君は、笑うことができるであろうか。私は、自身を、それに近いと思っている。社会的には、もう最初から私は敗残しているのである。けれども、芸術。それを言うのも亦、実に、てれくさくて、かなわぬのだが、私は痴の一念で、そいつを究明しようと思う。男子一生の業として、足りる、と私は思っている。辻音楽師には、辻音楽師の王国が在るのだ。

太宰治『鷗』(短編集『きりぎりす』)新潮社,1974

 私は、兵隊さんの小説を読む。くやしいことには、よくないのだ。ご自分の見たところの物を語らず、ご自分の曾つて読んだ悪文学から教えられた言葉でもって、戦争を物語っている。戦争を知らぬ人が戦争を語り、そうしてそれが内地でばかな喝采を受けているので、戦争を、ちゃんと知っている兵隊さんたちまで、そのスタイルの模倣をしている。戦争を知らぬ人は、戦争を書くな。要らないおせっかいは、やめろ。かえって邪魔になるだけではないのか。私は兵隊さんの小説を読んで、内地の「戦争を望遠鏡で見ただけで戦争を書いている人たち」に、がまんならぬ憎悪を感じた。君たちの、いい気な文学が、無垢な兵隊さんたちの、「ものを見る眼」を破壊させた。

同上

 どんな行いもそれが金に換わらなければ無意味であるという価値観。金が唯一の価値単位であるという信仰。価値の大小で心の満足感が決まるという先入観。
 それは違う。おかしい。承服しかねる。
 思春期に得た疑問や不満は、世間を漂う内に川を転がる岩のように丸く削れていき、ついには砂粒のように軽く小さく見えなくなって忘却される。それを胸に抱えたまま世間に飛び込む者は、その重さの為に沈んでいくし、その重さゆえに絶えずぶつかる漂流物の衝撃は分散されない。皮は剥ぎ取られ肉は切り裂かれ骨は砕けていく。ズタボロになった彼は嘲笑される。
 だが彼を苦しめるその重しこそが流れに対する抵抗力となる。激流に耐えて自らの足で立つ事を可能にする。胸に重さを抱えた者だけが、押し寄せる流れに逆らい、高みを目指して前進する事が出来る。枝を離れた木の葉のように激流に身を任せるだけの者はやがて大海へ出てその一部に溶け去っていく。
 どうする。まだ逆らうのか。まだ高みを目指すのか。逆らう。目指すぞ。まだ見た事の無い景色を求め、高みを目指す。自分の足で歩く。この大地と共に進む。流れは進む程にいよいよ激しくなる。激しく、その幅は狭くなり、目標が、進むべき方向が定まってくる。胸の重しは己を守る盾になる。進め。進め。源流を越えて更にその先へ行け。飛び立て。羽ばたけ。大海よりもはるかに広い空を越え、宇宙の未知へと近付く為に。

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