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【随想】芥川龍之介『邪宗門』②

 丁度その頃の事でございます。洛中に一人の異形な沙門が現れまして、とんと今までに聞いた事のない、摩利の教と申すものを説き弘め始めました。これも一時随分評判でございましたから、中には御聞き及びの方もいらっしゃる事でございましょう。よくものの草紙などに、震旦から天狗が渡ったと書いてありますのは、丁度あの染殿の御后に鬼が憑いたなどと申します通り、この沙門の事を譬えて云ったのでございます。

芥川龍之介『邪宗門』(短編集『羅生門・鼻』)新潮社,1968

「おのれ、よくも地蔵菩薩を天狗だなどと吐したな」と、嚙みつくように喚きながら、斜に相手の面を打ち据えました。が、打たれながらも、その沙門は、にやりと気味の悪い微笑を洩らしたまま、愈高く女菩薩の画像を落花の風に翻して、
「たとい今生では、如何なる栄華を極めようとも、天上皇帝の御教に悖るものは、一旦命終の時に及んで、忽ち阿鼻叫喚の地獄に墜ち、不断の業火に皮肉を焼かれて、尽未来まで吠えおろうぞ。ましてその天上皇帝の遺された、摩利信乃法師に笞を当つるものは、命終の時とも申さず、明日が日にも諸天童子の現罰を蒙って、白癩の身となり果てるぞよ」と、叱りつけたではございませんか。この勢いに気を呑まれて、私は元より当の鍛冶まで、暫くは唯、竹馬を戟にしたまま、狂おしい沙門の振舞を、呆れてじっと見守っておりました。

同上

 そう云う勢いでございますから、日を経るに従って、信者になる老若男女も、追々数を増して参りましたが、その又信者になりますには、何でも水で頭を濡すと云う、灌頂めいた式があって、それを一度すまさない中は、例の天上皇帝に帰依した明りが立ち兼ねるのだそうでございます。これは私の甥が見かけたことでございますが、或日四条の大橋を通りますと橋の下の河原に夥しい人だかりが致しておりましたから、何かと存じて覗きましたところ、これもやはり摩利信乃法師が東国者らしい侍に、その怪しげな灌頂の式を授けておるのでございました。何しろ折からの水が温んで、桜の花も流れようと云う加茂川へ、大太刀を佩いて畏った侍と、あの十文字の護符を捧げている異形な沙門とが影を落して、見慣れない儀式を致していたと申すのございますから、余程面白い見物でございましたろう。――そう云えば、前に申し上げる事を忘れましたが、摩利信乃法師は始めから、四条河原の非人小屋の間へ、小さな蓆張りの庵を造りまして、そこに始終たった一人、侘しく住んでいたのでございます。

同上

 彼は狂人だろうか。彼女は哀れだろうか。誰よりも強く純粋で汚れの無い妄想に浸っている彼らはむしろ、誰よりも真剣に”自分らしく”生きているのではないか。相対的価値観に疑問も持たず、脱自的思考を省みることもない、此奴よりも余程地に足が付いている。
 彼らとて、見ているし、見えている。その上で、信じている。信じているから、そこにある。そこにあるから、信じられる。おい、此奴。見ているか、見えているか。信じているか、そこにあるか。おい、此奴。お前は、お前か。

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