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【随想】太宰治『駈込み訴え』

もはや猶予の時ではない。あの人は、どうせ死ぬのだ。ほかの人の手で、下役たちに引き渡すよりは、私が、それを為そう。きょうまで私の、あの人に捧げた一すじなる愛情の、これが最後の挨拶だ。私の義務です。私があの人を売ってやる。つらい立場だ。誰がこの私のひたむきの愛の行為を、正当に理解してくれることか。いや、誰に理解されなくてもいいのだ。私の愛は純粋の愛だ。人に理解してもらう為の愛では無い。そんなさもしい愛では無いのだ。私は永遠に、人の憎しみを買うだろう。けれども、この純粋の愛の貪慾のまえには、どんな刑罰も、どんな地獄の業火も問題でない。私は私の生き方を生き抜く。

太宰治『駈込み訴え』(短編集『走れメロス』)新潮社,1967

 心を表すのに言葉は必ずしも正確ではない。むしろ自分の心情を正しく言葉にすることなど殆ど出来ない。
 単純な語彙力の不足、当該言葉の使用の不慣れ、自身と他人に於ける解釈の違い、その解釈を説明するにしても語彙不足により説明が出来ない、説明出来たとしても、相手がこちらの意図を望んだ通りに解釈するとは限らない。
 あたかも工業製品に於ける母性原理の様に、自身の言語能力を超えた状況は正しく言葉にする事は出来ない。正しく言葉に出来ない故に正しく理解する事が出来ない。何故なら人は言語を介する方法でしか現象を論理的に説明納得することは出来ないから。
 言葉で説明が出来ないけれど確かに存在するもの、そういうものについては感情に引き渡すことになる。

 感情の奔流はしばしば論理的説明の余地さえ飲み込み、むやみやたらと心身を興奮させ、通常ではおよそ考えられない行動を取らせることがある。そしてそうした感情の大波は時に非常な快感をもたらす。
 筋が通っていない、合理的ではない、悲惨な結果を招く、そうしたそれをやるべきでない諸々の理由を頭で理解していながら尚、その激流に身を任せる快感に溺れ、自身の全てを委ねてしまう。怒りであろうと、悲しみであろうと、愛であろうと、憎しみであろうとだ。
 感情に身を委ね溺れている人間、その快感に意識を失っている人間を見ると、その人間は最早感情をぶつける先が本来の相手から自己自身へと変わってしまっていると分かる。所謂自分に酔うというやつである。そうした理性を失った人間に対して理を説くのは全くの無駄である。その人間はとっくに理の埒外に居るのだから。

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