見出し画像

【随想】太宰治『正義と微笑』③

 さっきから僕は、斎藤氏の自叙伝「芝居街道五十年」を机の上にひろげているのだが、一ペエジもすすまない。いろんな空想で、ただ胸が、わくわくしているのである。へんに、不愉快なほどの緊張だ。これから、いよいよ現実生活との取っ組合いがはじまるのだ。男一匹が、雄々しく闘って行く姿! もう胸が一ぱいになってしまう。あすの会見は、うまく行くかしら。こんどは僕ひとりで行くのだ。誰の助力もない。あんな簡単な紹介状では、たいした効果も期待できない。結局、僕ひとり、誠実を披瀝して、僕の希望を述べなければならぬ。ああ心配だ。神さま、僕を守って下さい。

太宰治『正義と微笑』(『パンドラの匣』)新潮社,1973

僕は、けさから、ただの人間になってしまった。どんな巧妙な加減乗除をしても、この僕の一・〇という存在は流れの中に立っている杭のように動かない。ひどく、しらじらしい。けさの僕は、じっと立っている杭のように厳粛だった。心に、一点の花も無い。どうした事か。
 (中略) 
ひどい興覚め。絶対孤独。いままでの孤独は、謂わば相対孤独とでもいうようなもので、相手を意識し過ぎて、その反撥のあまりにポーズせざるを得なくなったような孤独だったが、きょうの思いは違うのだ。まったく誰にも興味が無いのだ。ただ、うるさいだけだ。なんの苦も無くこのまま出家遁世できる気持だ。人生には、不思議な朝もあるものだ。

同上

 性慾の、本質的な意味が何もわからず、ただ具体的な事だけを知っているとは、恥ずかしい。犬みたいだ。

同上

 黒いソフトをかぶって、背広を着た少年。おしろいの匂いのする鞄をかかえて、東京駅前の広場を歩いている。これがあの、十六歳の春から苦しみに苦しみ抜いた揚句の果に、ぽとりと一粒結晶して落ちた真珠の姿か。あの永い苦悩の、総決算がこの小さい、寒そうな姿一つだ。すれちがう人、ひとりとして僕の二箇年の、滅茶苦茶の努力には気がつくまい。よくも死にもせず、発狂もせずに、ねばって来たものだと僕は思っているのだが、よその人は、ただ、あの道楽息子も、とうとう役者に成りさがった、と眉をひそめて言うだろう。芸術家の運命は、いつでも、そんなものだ。
 誰か僕の墓碑に、次のような一句をきざんでくれる人はないか。
「かれは、人を喜ばせるのが、何より好きであった!」

同上

 この場所に辿り着いたのは偶然なのか必然なのか。もう一度歩き直したならばやはりここに着くのだろうか、それとも全然違う場所へ。
 同じ道は二度歩けない。不可能を想像するのは時間の無駄か。可能性だけを考えるべきなのか。有り得ることだけを求めるべきなのか。
 目に見えるものは全て可能なものだ、つまり可能性だ。でも見えないものだって可能性だ。
 同じ道は二度歩けない。なぜなら同じ道など存在しないから。通り過ぎた一瞬後にはもう違う道だ。振り返ってもそこに自分はいない。いるような気がしても、いない。過去は再現出来ない。過去は確定出来ない、未来を確定出来ないのと同じ意味で。

この記事が参加している募集

素晴らしいことです素晴らしいことです