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【随想】芥川龍之介『一塊の土』

 それだけに丁度初七日の翌朝、お民の片づけものをし出した時には、お住の驚いたのも格別だった。お住はその時孫の広次を奥部屋の縁側に遊ばせていた。遊ばせる玩具は学校のを盗んだ花盛りの桜の一枝だった。
「のう、お民、おらあきょうまで黙っていたのは悪いけんど、お前はよう、この子とおらとを置いたまんま、はえ、出て行ってしまうのかよう?」
 お住は詰ると云うよりは訴えるように声をかけた。が、お民は見向きもせずに、「何を云うじゃあ、おばあさん」と笑い声を出したばかりだった。それでもお住はどの位ほっとしたことだか知れなかった。
「そうずらのう。まさかそんなことをしやしめえのう。……」

芥川龍之介『一塊の土』(短編集『戯作三昧・一塊の土』)新潮社,1968

 お民は愈骨身を惜しまず、男の仕事を奪いつづけた。時には夜もカンテラの光りに菜などをうろ抜いて廻ることもあった。お住はこう云う男まさりの嫁にいつも敬意を感じていた。いや、敬意と云うよりも寧ろ畏怖を感じていた。お民は野や山の仕事の外は何でもお住に押しつけ切りだった。この頃ではもう彼女自身の腰巻さえ滅多に洗ったことはなかった。お住はそれでも苦情を云わずに、曲った腰を伸ばし伸ばし、一生懸命に働いていた。のみならず隣の婆さんにでも遇えば、「何しろお民がああ云う風だからね、はえ、わたしはいつ死んでも、家に苦労は入らなえよう」と、真顔に嫁のことを褒めちぎっていた。

同上

「おばあさん、お前さん隠居でもしたくなったんじゃあるまえね?」
 お民は胡座の膝を抱いたなり、冷かにこう釘を刺した。突然急所を衝かれたお住は思わず大きい眼鏡を外した。しかし何の為に外したかは彼女自身にもわからなかった。
「なあん、お前、そんなことを!」
「お前さん広のお父さんの死んだ時に、自分でも云ったことを忘れやしまえね? 此処の家の田地を二つにしちゃ、御先祖様にもすまなえって、……」
「ああさ。そりゃそう云ったじゃ。でもの、まあ考えて見ば。時世時節と云うこともあるら。こりゃどうにも仕かたのなえこんだの。……」
 お住は一生懸命に男手の入ることを弁じつづけた。が、兎に角お住の意見は彼女自身の耳にさえ尤もらしい響を伝えなかった。それは第一に彼女の本音、――つまり彼女の楽になりたさを持ち出すことの出来ない為だった。

同上

 お民の葬式をすました夜、お住は仏壇のある奥部屋の隅に広次と一つ蚊帳へはいっていた。ふだんは勿論二人ともまっ暗にした中に眠るのだった。が、今夜は仏壇にはまだ燈明もともっていた。その上妙な消毒薬の匂も古畳にしみこんでいるらしかった。お住はそんなこんなのせいか、いつまでも容易に寝つかれなかった。お民の死は確かに彼女の上へ大きい幸福を齎していた。彼女はもう働かずとも好かった。小言を云われる心配もなかった。其処へ貯金は三千円もあり、畠は一町三段ばかりあった。これからは毎日孫と一しょに米の飯を食うのも勝手だった。日頃好物の塩鱒を俵で取るのも亦勝手だった。お住はまだ一生のうちにこの位ほっとした覚えはなかった。この位ほっとした?――しかし記憶ははっきりと九年前の或夜を呼び起した。あの夜も一息ついたことを云えば、殆ど今夜に変らなかった。あれは現在血をわけた倅の葬式のすんだ夜だった。今夜は?――今夜も一人の孫を産んだ嫁の葬式のすんだばかりだった。

同上

 どこまでも、いつまでも、世界は己の為のみにあり、己自身であり、永遠に、永遠に、唯独りであり続ける。誰かを頼りに生きようとしても、誰かの為に生きようとしても、誰かに自分を定義させて生きようとしても、帰趨は明らかに、唯己のみである。行き場の無い憎しみは、やがて疲労に昇華し骨身に浸み渡る。溢れ出る悲しみも、焦るほどの高揚感も、結局は単純な運動へと変化し、心臓の振動に紛れていく。
 人生は、何もかも夢で見る幻より不鮮明な記憶の塊でしかないし、嘘と思えば嘘と思えるくらいに曖昧で輪郭など見えない。人は夢を積み重ねているのか、夢で得た経験をまた夢に反映させているのか、生きるという意識の続く限り現実という夢の質量を集めては零し続けている。所詮は、一握りの砂よりもありふれた星の残滓たる我々である。

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