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【随想】宮沢賢治『鹿踊りのはじまり』

 向うの一疋はそこで得意になって、舌を出して手拭を一つべろりと嘗めましたが、にわかに怖くなったとみえて、大きく口をあけて舌をぶらさげて、まるで風のように飛んで帰ってきました。みんなもひどく愕きました。
「じゃ、じゃ、嚙じらえだが、痛くしたが。」
「プルルルルルル。」
「なにした、なにした。なにした。じゃ。」
「ふう、ああ、舌縮まってしまったたよ。」
「なじょな味だた。」
「味無いがたな。」
「生ぎもんだべが。」
「なじょだが判らない。こんどあ汝あ行ってみろ。」
「お。」
 おしまいの一疋がまたそろそろ出て行きました。みんながおもしろそうに、ことこと頭を振って見ていますと、進んで行った一疋は、しばらく首をさげて手拭を嗅いでいましたが、もう心配もなにもないという風で、いきなりそれをくわえて戻ってきました。そこで鹿はみなぴょんぴょん跳びあがりました。
「おう、うまい、うまい、そいづさい取ってしめば、あどは何っても怖っかなぐない。」
「きっともて、こいづあ大きな蝸牛の旱からびだのだな。」
「さあ、いいが、おれ歌うだうはんてみんな廻れ。」
 その鹿はみんなのなかにはいってうたいだし、みんなはぐるぐるぐるぐる手拭をまわりはじめました。

宮沢賢治『鹿踊りのはじまり』(童話集『注文の多い料理店』)新潮社,1990

そこに居ればいい。そこが満たされているのなら、それでいい。それ以上求めなくていい。
足りないものを探して、足りないと思い込んで、足りなさに苦しむ。わざわざ。
あの大黒空を見たか。何が見える、何を知っている。何も無いだろう。その程度のことだ。
広げればキリがない。本当は広がっていないのだ。逆だ。
そこに風は吹くか。そこに水は落ちるか。そこに光は届くか。
全部あるだろう。全部あるのだ。もういい。それ以上は、もういい。

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