【随想】宮沢賢治『鹿踊りのはじまり』 1 Junigatsu Yota 2021年9月23日 11:53 向うの一疋はそこで得意になって、舌を出して手拭を一つべろりと嘗めましたが、にわかに怖くなったとみえて、大きく口をあけて舌をぶらさげて、まるで風のように飛んで帰ってきました。みんなもひどく愕きました。「じゃ、じゃ、嚙じらえだが、痛くしたが。」「プルルルルルル。」「なにした、なにした。なにした。じゃ。」「ふう、ああ、舌縮まってしまったたよ。」「なじょな味だた。」「味無いがたな。」「生ぎもんだべが。」「なじょだが判らない。こんどあ汝あ行ってみろ。」「お。」 おしまいの一疋がまたそろそろ出て行きました。みんながおもしろそうに、ことこと頭を振って見ていますと、進んで行った一疋は、しばらく首をさげて手拭を嗅いでいましたが、もう心配もなにもないという風で、いきなりそれをくわえて戻ってきました。そこで鹿はみなぴょんぴょん跳びあがりました。「おう、うまい、うまい、そいづさい取ってしめば、あどは何っても怖っかなぐない。」「きっともて、こいづあ大きな蝸牛の旱からびだのだな。」「さあ、いいが、おれ歌うだうはんてみんな廻れ。」 その鹿はみんなのなかにはいってうたいだし、みんなはぐるぐるぐるぐる手拭をまわりはじめました。宮沢賢治『鹿踊りのはじまり』(童話集『注文の多い料理店』)新潮社,1990そこに居ればいい。そこが満たされているのなら、それでいい。それ以上求めなくていい。足りないものを探して、足りないと思い込んで、足りなさに苦しむ。わざわざ。あの大黒空を見たか。何が見える、何を知っている。何も無いだろう。その程度のことだ。広げればキリがない。本当は広がっていないのだ。逆だ。そこに風は吹くか。そこに水は落ちるか。そこに光は届くか。全部あるだろう。全部あるのだ。もういい。それ以上は、もういい。 ダウンロード copy この記事が参加している募集 読書感想文 182,650件 #エッセイ #読書感想文 #宮沢賢治 #随想 #鹿踊りのはじまり 1 素晴らしいことです素晴らしいことです 記事をサポート