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【随想】宮沢賢治『蛙のゴム靴』

 そのうちだんだん夜になりました。
    パチャパチャパチャパチャ。
 ルラ蛙はまたお父さんのところへ行きました。
 いくら起しても起きませんでした。
 夜があけました。
    パチャパチャパチャパチャ。
 ルラ蛙はまたお父さんのところへ行きました。
 いくら起しても起きませんでした。
 日が暮れました。雲のみねの頭。
    パチャパチャパチャパチャ。
 ルラ蛙はまたお父さんのところへ行きました。
 いくら起しても起きませんでした。
 夜が明けました。
    パチャパチャパチャパチャ。
 雲のみね。ペネタ形。

宮沢賢治『蛙のゴム靴』(童話集『新編 風の又三郎』)新潮社,1989

 春の桜吹雪、夏の入道雲、秋の落葉道、冬の星空。季節を象徴する風景があるように、或る時の或る自分の心象が何かの風景に象徴されることがある。懐かしさとは自分の記憶の再経験だ。懐かしい風景は、当時を収めた絵と同時にその時の心も掘り起こす。懐かしい記憶、校庭の隅に作った秘密基地、友達と遊んだ団地の薄暗い階段、オオカマキリを捕まえた公園の草むら、好きな子と偶然二人きりになった放課後の教室、それぞれの場所に行けばきっと思い出すだろう、当時の心象を。そっくりそのままではない。時間に風化された、今の自分から見た記憶に変わっているけれど、それでもそれと分かる程度に原型は留めているだろう。現地の光景、現地の空気は、ただ頭で思い出すよりもずっと正確に記憶を掘り起こすから。
 あの日あの時のあの光景を、なぜかずっと忘れられない。何があったのか、誰と居たのか、何も覚えていない。だからその記憶を覚えていることに何の意味があるのか、全く分からない。意味の無い記憶を、役に立たない記憶を、人は忘れないでいられるものだろうか。それとも実は、自分の無意識に深く根を張り、自分の行動に大きく影響を与えているような、そんな何かが隠されているのだろうか。人は個々の記憶を思い出し利用することはあっても、総体としての記憶を、謂わば全記憶の背景を想像することはない。心象を象徴する風景とは、自分の意識の背景なのかも知れない。

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