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【随想】太宰治『猿ヶ島』
「ここは、いいところだろう。この島のうちでは、ここがいちばんいいのだよ。日が当たるし、木があるし、おまけに、水の音が聞こえるし」彼は脚下の小さい滝を満足げに見おろしたのである。
「みんな知らないのか」
彼は私の顔を見ずに下から答えてよこした。
「知るものか。知っているのは、おそらく、おれと君とだけだよ」
「なぜ逃げないのだ」
「君は逃げるつもりか」
「逃げる」
青葉。砂利道。人の流れ。
「こわくないか」
私はぐっと眼をつぶった。言っていけない言葉を彼は言ったのだ。
「よせ、よせ。降りて来いよ。ここはいいところだよ。日が当るし、木があるし、水の音が聞えるし、それにだいいち、めしの心配がいらないのだよ」
檻の中を自由な世界だと疑わない者からすれば檻の外に居る者こそ哀れな囚人だ。
安全で水にも食べ物にも困らない。出来合の幸福、決められたルート、それの何が悪い。みんながそうなら自分もそうだ、それでいい、それ以上考える必要はない、考えると不幸になる、考える奴はバカだ、ただ従え、疑うな、考えるな、みんながやっていることが正しいことだ、みんながやればみんなもやる、みんながやるから自分もやる、正しいことは幸せだ、余計なことはするな、見るな、言うな、聞くな、何も気にするな、我々はこの社会に止められたネジだ、外れたら社会は壊れてしまう、社会は必要だ、生きていくために必要だ、だからこれでいい、このままでいい。
天の川を漂う青く美しい猿の檻。
素晴らしいことです素晴らしいことです