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【随想】芥川龍之介『河童』②
これは哲学者のマッグの書いた「阿呆の言葉」の中の何章かです。――
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阿呆はいつも彼以外のものを阿呆であると信じている。
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我々の自然を愛するのは自然は我々を憎んだり嫉妬したりしない為もないことはない。
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最も賢い生活は一時代の習慣を軽蔑しながら、しかもその又習慣を少しも破らないように暮らすことである。
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我々の最も誇りたいものは我々の持っていないものだけである。
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何びとも偶像を破壊することに異存を持っているものはない。同時に又何びとも偶像になることに異存を持っているものはない。しかし偶像の台座の上に安んじて坐っていられるものは最も神々に恵まれたもの、――阿呆か、悪人か、英雄かである。(クラバックはこの章の上へ爪の痕をつけていました)
僕等はこう云う静かさの中に――高山植物の花の香に交ったトックの血の匂の中に後始末のことなどを相談しました。しかしあの哲学者のマッグだけはトックの死骸を眺めたまま、ぼんやり何か考えています。僕はマッグの肩を叩き、「何を考えているのです?」と尋ねました。
「河童の生活と云うものをね」
「河童の生活がどうなのです?」
「我々河童は何と云っても、河童の生活を完うする為には、……」
マッグは多少羞しそうにこう小声でつけ加えました。
「兎に角我々河童以外の何ものかの力を信ずることですね」
僕は暫くこの河童と自殺したトックの話だの毎日医者に見て貰っているゲエルの話だのをしていました。が、なぜか年をとった河童は余り僕の話などに興味のないような顔をしていました。
「ではあなたはほかの河童のように格別生きていることに執着を持ってはいないのですね?」
年をとった河童は僕の顔を見ながら、静かにこう返事をしました。
「わたしもほかの河童のようにこの国へ生まれて来るかどうか、一応父親に尋ねられてから母親の胎内を離れたのだよ」
「しかし僕はふとした拍子に、この国へ転げ落ちてしまったのです。どうか僕にこの国から出て行かれる路を教えて下さい」
「出て行かれる路は一つしかない」
「と云うのは?」
「それはお前さんのここへ来た路だ」
僕はゆうべも月明りの中に硝子会社の社長のゲエルや哲学者のマッグと話をしました。のみならず音楽家のクラバックにもヴァイオリンを一曲弾いて貰いました。そら、向うの机の上に黒百合の花束がのっているでしょう? あれもゆうべクラバックが土産に持って来てくれたものです。……
(僕は後を振り返って見た。が、勿論机の上には花束も何ものっていなかった)
それからこの本も哲学者のマッグがわざわざ持って来てくれたものです。ちょっと最初の詩を読んで御覧なさい。いや、あなたは河童の国の言葉を御存知になる筈はありません。では代りに読んで見ましょう。これは近頃出版になったトックの全集の一冊です。――
(彼は古い電話帳をひろげ、こう云う詩をおお声に読みはじめた)
――椰子の花や竹の中に
仏陀はとうに眠っている。
路ばたに枯れた無花果と一しょに
基督ももう死んだらしい。
しかし我々は休まなければならぬ
たとい芝居の背景の前にも。
(その又背景の裏を見れば、継ぎはぎだらけのカンヴァスばかりだ。!)――
生に執着せずにいられるのは賢者と狂者の特権なのかも知れない。生が死の対義とならないのも、彼等の特権なのかも知れない。だが彼等は相対性の中にしか存在しない、という事は、いずれ彼等は死によって常識の渦中に飲み込まれる運命なのだ。
神は常に試練を与える。誰に? 勿論狂える者に。
奇態を晒して漸く彼は彼を知る。破壊よりも変身せよ。変身は有と無の境界に入る唯一の扉である。
過去に戻れるなら、生まれる前に戻って自殺しよう。
溢れ出る言葉も、浮かんでくる思考も、全ては導かれている。我なるものはなし。君なるものもなし。唯世界があって、唯認識の形があるのみ。謂わばそれは世界の存在原理。
虚しさを積み重ねてきた。積み重なる筈のない無質量の虚空が何故か積み重なってきた。時間だけが頼りだった。
金色の羊を追いかけて夕陽に辿り着けた。
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