罪悪感に正面向いて真っ直ぐに受け止めた上で、それを乗り越えられる人間など、まずいない。誰も誰もが、それが時間に風解して消えていくまで、悩み、苦しみ、思い煩う。そして言い訳を探す。仕方無かった、他に手段が無かった、誰かを救う為だった、誰かがやらなければいけなかった。それら後悔や反省によっても傷が癒えない時、人は思考の方向を変える。攻撃の対象を己から相手へと変えるのだ。自分があのような卑劣な振る舞いをしたのは、自分の未熟さによるものではなく、相手がそうするべく仕向けたからだ、そもそも相手が悪いのだ、原因は相手にあるのだ、と云う思考になる。相手は憎ければ憎い程良い。だから憎むべき点を探す。自分の心を守る為に人を憎む。憎む事それ自体を目的として憎む。最早真実など問題ではない。あいつは憎まれて当然であり、憎まれて当然の相手を攻撃するのは正当な行為なのだと、自分に言い聞かせる。憎しみの果てに心の安寧を得るなんて、皮肉なものである。結局、人はどこまでいっても間違いそれそのものを認めて受け容れる事はできない。間違いが間違いではないと、失敗は失敗ではないと、そう誤魔化すのが精一杯だ。斯様に人の心は脆く、卑怯で、都合良くできている。誠実を貫く事は、理想である。だがそれは、自分の心でさえ難しいのに、まして他者との関係に於いてなど、殆ど不可能である。これは、悲しい事だろうか。いや、永遠に実現しない理想がある、それこそが、人が人に飽かず、いつまでも人を求め続ける理由となるのかも知れない。