【随想】宮沢賢治『ざしき童子のはなし』
何かに後ろから肩を強く叩かれた。おい、と聞こえた。棟と棟をつなぐ狭い渡り廊下、すぐに振り向いたが誰もいない。周りを見回しても誰もいない。隠れる場所などない、すぐに逃げても数秒で視界から消えることは不可能な場所だ。気のせい、ではない。肩にじんわりと僅かな熱と痛み、感触はまだ残っている、確かに叩かれた。おい、という声、これは空耳ということも有り得る。だが肩への衝撃は気のせいなどではない。
こんなこともあった。夜机に向かいながらうとうとと舟を漕いでいた。すると突然、机に広げていたノート上で破裂音がした。小さな甲殻虫が勢いよく落下したような音、ハッと眼を覚ますが、机上にも周囲にも何ら音の痕跡はない。天上を見上げたが、やはり異常はない。これこそ空耳だろうか。寝ぼけて夢と現実を混同したのだろうか。
胡蝶の夢、水槽の脳、古来、人は自分と自分がいる世界を疑ってきた。なぜそんな思考を生み出したのか。それは何かを創造する時に生まれる副産物の如き思考なのか。何かを創ること、それはその本質の追求。それがそうある理由、それをそれと認識する根拠、なにゆえそれはそれなのか。人はなにゆえ人なのか、そして世界とは。そんな思考を進める内に意識の片隅に育っていく仮想現実、或いは現実という虚構。超常現象とは意識と空間をつなぐ思考の外領域に迷い込んだ、そんな時に起きるのかも知れない。
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