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【随想】宮沢賢治『ざしき童子のはなし』

 また、北上川の朗明寺の淵の渡し守が、ある日わたしに云いました。
「旧暦八月十七日の晩に、おらは酒のんで早く寝た。おおい、おおいと向うで呼んだ。起きて小屋から出てみたら、お月さまはちょうどおそらのてっぺんだ。おらは急いで舟だして、向うの岸に行ってみたらば、紋付を着て刀をさし、袴をはいたきれいな子供だ。たった一人で、白緒のぞうりもはいていた。渡るかと云ったら、たのむと云った。子どもは乗った。舟がまん中ごろに来たとき、おらは見ないふりしてよく子供を見た。きちんと膝に手を置いて、そらを見ながら座っていた。
 お前さん今からどこへ行く、どこから来たってきいたらば、子供はかあいい声で答えた。そこの笹田のうちに、ずいぶんながく居たけれど、もうあきたから外へ行くよ。なぜあきたねってきいたらば、子供はだまってわらっていた。どこへ行くねってまたきいたらば更木の斎藤へ行くよと云った。岸に着いたら子供はもう居ず、おらは小屋の入口にこしかけていた。夢だかなんだかわからない。けれどもきっと本当だ。それから笹田がおちぶれて、更木の斎藤では病気もすっかり直ったし、むすこも大学を終ったし、めきめき立派になったから」
 こんなのがざしき童子です。

宮沢賢治『ざしき童子のはなし』(童話集『注文の多い料理店』)新潮社,1990

 何かに後ろから肩を強く叩かれた。おい、と聞こえた。棟と棟をつなぐ狭い渡り廊下、すぐに振り向いたが誰もいない。周りを見回しても誰もいない。隠れる場所などない、すぐに逃げても数秒で視界から消えることは不可能な場所だ。気のせい、ではない。肩にじんわりと僅かな熱と痛み、感触はまだ残っている、確かに叩かれた。おい、という声、これは空耳ということも有り得る。だが肩への衝撃は気のせいなどではない。
 こんなこともあった。夜机に向かいながらうとうとと舟を漕いでいた。すると突然、机に広げていたノート上で破裂音がした。小さな甲殻虫が勢いよく落下したような音、ハッと眼を覚ますが、机上にも周囲にも何ら音の痕跡はない。天上を見上げたが、やはり異常はない。これこそ空耳だろうか。寝ぼけて夢と現実を混同したのだろうか。
 胡蝶の夢、水槽の脳、古来、人は自分と自分がいる世界を疑ってきた。なぜそんな思考を生み出したのか。それは何かを創造する時に生まれる副産物の如き思考なのか。何かを創ること、それはその本質の追求。それがそうある理由、それをそれと認識する根拠、なにゆえそれはそれなのか。人はなにゆえ人なのか、そして世界とは。そんな思考を進める内に意識の片隅に育っていく仮想現実、或いは現実という虚構。超常現象とは意識と空間をつなぐ思考の外領域に迷い込んだ、そんな時に起きるのかも知れない。

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