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【随想】宮沢賢治『ひかりの素足』①

 外では谷川がごうごうと流れ鳥がツンツン鳴きました。
 その時にわかにまぶしい黄金の日光が一郎の足もとに流れて来ました。
 顔をあげて見ますと入口がパッとあいて向うの山の雪がつんつんと白くかがやきお父さんがまっ黒に見えながら入って来たのでした。
「起ぎだのが。昨夜寒ぐなぃがったが。」
「いいえ。」
「火ぁ消でらたもな。おれぁ二度起ぎで燃やした。さあ、口漱げ、飯でげでら、楢夫。」
「うん。」
「家ど山どどっちぁ好い。」
「山の方ぁい、いんとも学校さ行がれなぃもな。」
 するとお父さんが鍋を少しあげながら笑いました。

宮沢賢治『ひかりの素足』(童話集『注文の多い料理店』)新潮社,1990

 お父さんは火を見ながらじっと何か考え、鍋はことこと鳴っていました。
 二人も座りました。
 日はもうよほど高く三本の青い日光の棒もだいぶ急になりました。
 向うの山の雪は青ぞらにくっきりと浮きあがり見ていますと何だかこころが遠くの方へ行くようでした。
 にわかにそのいただきにパッとけむりか霧のような白いぼんやりしたものがあらわれました。
 それからしばらくたってフィーとするどい笛のような声が聞えて来ました。
 すると楢夫がしばらく口をゆがめて変な顔をしていましたがとうとうどうしたわけかしくしく泣きはじめました。一郎も変な顔をして楢夫を見ました。
 お父さんがそこで
「何した、家さ行ぐだぐなったのが、何した。」とたずねましたが楢夫は両手を顔にあてて返事もしないで却ってひどく泣くばかりでした。
「何した、楢夫、腹痛ぃが。」一郎もたずねましたがやっぱり泣くばかりでした。
 お父さんは立って楢夫の額に手をあてて見てそれからしっかり頭を押えました。
 するとだんだん泣きやんでついにはただしくしく泣きじゃくるだけになりました。

同上

 ひるすぎになって谷川の音もだいぶかわりました。何だかあたたかくそしてどこかおだやかに聞えるのでした。

同上

「戻るが、楢夫、戻るが。」一郎も困ってそう云いながら来た下の方を一寸見ましたがとてももう戻ろうとは思われませんでした。それは来た方がまるで灰いろで穴のようにくらく見えたのです。それにくらべては峠の方は白く明るくおまけに坂の頂上だってもうじきでした。そこまでさえ行けばあとはもう十町もずうっと丘の上で平らでしたし来るときは山鳥も何べんも飛び立ち灌木の赤や黄いろの実もあったのです。
「さあもう一あしだ。歩べ。上まで行げば雪も降ってなぃしみぢも平らになる。歩べ、怖っかなぐなぃはんて歩べ。あどがらあの人も馬ひで来るしそれ、泣がなぃで、今度ぁゆっくり歩べ。」一郎は楢夫の顔をのぞき込んで云いました。楢夫は涙をふいてわらいました。楢夫の頬に雪のかけらが白くついてすぐ溶けてなくなったのを一郎はなんだか胸がせまるように思いました。

同上

心臓がぶるぶるして不安と恐怖が頬を撫でる
真白な景色には慈悲が無い
無暗な眩しさにトンネルを抜ける期待が膨らむ
ちらちら煌めく氷の粉は炎よりも青く冷たい
どこまでも突き抜ける天辺に手がかりが無い
何を頼りにすればいい
どうすればこの震えが止まるのか
歩みは続く
延々と続く
足下があまりにも不安定なのだ

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