見出し画像

【随想】芥川龍之介『神神の微笑』

「この国の風景は美しい。気候もまず温和である。土人は、――あの黄面の小人よりも、まだしも黒ん坊がましかも知れない。しかしこれも大体の気質は、親しみ易い処がある。のみならず信徒も近頃では、何万かを数える程になった。現にこの首府のまん中にも、こう云う寺院が聳えている。して見れば此処に住んでいるのは、たとい愉快ではないにしても、不快にはならない筈ではないか? が、自分はどうかすると、憂鬱の底に沈む事がある。リスボアの市へ帰りたい、この国を去りたいと思う事がある。これは懐郷の悲しみだけであろうか? いや、自分はリスボアでなくとも、この国を去る事が出来さえすれば、どんな土地へでも行きたいと思う。支那でも、沙室でも、印度でも、――つまり懐郷の悲しみは、自分の憂鬱の全部ではない。自分は唯この国から、一日も早く逃れたい気がする。しかし――しかしこの国の風景は美しい。気候もまず温和である。……」
 オルガンティノは吐息をした。この時偶然彼の眼は、点点と木かげの苔に落ちた、仄白い桜の花を捉えた。桜! オルガンティノは驚いたように、薄暗い木立ちの間を見つめた。其処には四五本の棕櫚の中に、枝を垂らした糸桜が一本、夢のように花を煙らせていた。
「御主守らせ給え!」
 オルガンティノは一瞬間、降魔の十字を切ろうとした。実際その瞬間彼の眼には、この夕闇に咲いた枝垂桜が、それ程無気味に見えたのだった。無気味に、――と云うよりも寧ろこの桜が、何故か彼を不安にする、日本そのもののようにみえたのだった。が、彼は刹那の後、それが不思議でも何でもない、唯の桜だった事を発見すると、恥しそうに苦笑しながら、静かに又もと来た小径へ、力のない歩みを返して行った。

芥川龍之介『神神の微笑』(短編集『奉教人の死』)新潮社,1968

 桜がほの白く漂う夜気に、せせらぎの音のように溶け込んでいく意識を意識した時、ああこの世界には確かに神の力が遍満しているのだと、この愚かな人でさえ気付くことができた。僕等はどうしようもなく世界に溶けていく。それも何の厭味もなく、何の力みもなく、あらゆるものと調和するように溶けていく。何もかも予定されていたように、意識はいつの間にか脳を抜け出して、遠いような近いような何処かに集合している。ああそんな春の花夢がいつまでも続けば、僕は確実に気を違えるだろう、そして仙人になるだろう。満月より恐ろしいこの国の春の闇、直感が危険を知らせたのだろう。

この記事が参加している募集

素晴らしいことです素晴らしいことです