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【随想】太宰治『鉄面皮』

 鉄面皮、と原稿用紙に大きく書いたら、多少、気持も落ちついた。子供の頃、私は怪談が好きで、おそろしさの余りめそめそ泣き出してもそれでもその怪談の本を手放さずに読みつづけて、ついには玩具箱から赤鬼のお面を取り出してそれをかぶって読みつづけた事があったけれど、あの時の気持と実に似ている。あまりの恐怖に、奇妙な倒錯が起ったのである。鉄面皮。このお面をかぶったら大丈夫、もう、こわいものはない。

太宰治『鉄面皮』(短編集『ろまん燈籠』)新潮社,1983

 仮面や化粧のように顔を隠したり飾ったりする文化は古今東西人間社会に普遍的であるようだ。何故顔を加工するのか、それは顔が生物のシンボルだからだろう。生物と生物が相対した時、たとえ種族の違う生物同士であろうと、必ず最初に顔を見る。厳密には眼を見る。眼は、暗闇に生きる生物を除けば、通常最大の情報獲得器官であり、どの生物もそれを本能的に知っている。眼の色や動きには当人の心情がよく表れるため、相手の眼を見れば、相手が自分についてどの程度の情報を持っているのか推測することが出来る。その推測に基づき、逃走するなり襲撃するなり友好的態度を取るなり、自分の行動を決める。つまり眼は自分が情報を獲得する器官であると同時に、相手に情報を与える器官でもある。他者とは自分以外の生きた情報の塊とも言える。情報源である眼がある部分を顔というのだから、顔がその生物の象徴となるのは当然だ。顔を加工するということは、シンボル、つまり自分自身の見え方見られ方を変えるということであり、そこには相手を欺騙しようという心理もあれば、自分で自分を欺騙する心理もあり、様々な心理が複雑に絡み合っている。だが、多数の意思の混線は依拠すべき現実を見失わせ自我の崩壊を招く可能性があるということを理解しておかねばならない。自己を本来の自分とは別の存在に仕立て上げる行為とは本来それ程に危険な行為なのだ。尤も普通は、仮面や化粧は特定の目的よりも状況への適合という意味合いが大きいので、目的の氾濫による自意識の破壊や喪失などが起きることは無い。人類は古来顔の加工を文化としてきたが、かつては変身の具現化による言葉や行為への意味の付与、要するに民を導くまじないの為であったものが、やがて変身ごっこ、つまり演じる者も見ている者もそれが演技であると知っている演劇という知的遊戯の為、或いは個人の身だしなみ程度の意味にまで俗化され、その重要性はかなり薄れたように思う。そんな現代においても、仮面や化粧をすると、強くなった気がしたり、何かに守られているような安心感を得たりと、その効果は十分にあるようだ。しかし仮面で得られる万能感はあくまで仮であって、決して本来の自分の能力ではない。素顔を晒すことに恐怖を感じるようになったらよくよく注意すべきだろう。それが所謂仮面の呪いなのだから。

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