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【随想】太宰治『懶惰の歌留多』

 要するに、怠惰なのである。いつまでも、こんな工合いでは、私は、とうてい見込みのない人間である。そう、きめて了うのは、私も、つらいのであるが、もうこれ以上、私たち、自身を甘やかしてはいけない。
 苦しさだの、高邁だの、純潔だの、素直だの、もうそんなこと聞きたくない。書け。落語でも、一口噺でもいい。書かないのは、例外なく怠惰である。おろかな、おろかな、盲信である。人は、自分以上の仕事もできないし、自分以下の仕事もできない。働かないものには、権利がない。人間失格、あたりまえのことである。

太宰治『懶惰の歌留多』(短編集『新樹の言葉』)新潮社,1982

戦争と平和や、カラマゾフ兄弟は、まだまだ私には、書けないのである。それは、もう、はっきり明言できるのである。絶対に書けない。気持だけは、行きとどいていても、それを持ちこたえる力量がないのである。けれども、私は、そんなに悲しんではいない。私は、長生きをしてみるつもりである。やってみるつもりである。この覚悟も、このごろ、やっとついた。私は、文学を好きである。その点は、よほどのものである。これを茶化しては、いけない。好きでなければ、やれるものではない。信仰、――少しずつ、そいつがわかって来るのだ。

同上

 やろう。死ぬまでやろう。いつか死ぬのだ。死ぬまでやろう。死んでもやろう。死んでからもやろう。地獄の底で、極楽の隅で、こそこそ馬鹿みたいに、愚直に、ひたすらやろう。仏に呆れられ、獄卒に小突かれても、やろう。遠回りしてきた、いやそうではない、こうなるべくしてなったのだ。これがベストなのだ。この道しかなかったのだ。全部全部必要だったのだ。悪くない、どころではない、最高だ。だからやろう。今やれるから、今やろう。いるじゃないか、私はここにいるじゃないか。あるじゃないか、世界はここにあるじゃないか。これ以上、何が必要だと言うのだ。全部足りている。満ちている。もう、やるしかないのだ。

 地球から月まで直線距離で約38万km、一日20km歩いて19000日、約52年である。決して不可能な数字ではない。現実的に可能な範囲である。のび太も考えた、人は地球から月まで歩くことが出来る。数字の上とはいえ、世界一周どころか、隣の天体までの距離を歩くことが可能であるという事実。決して手が届かないと思われるはるか天空の彼方に見える星、それが実は人間一人の一生の内に到達し得る場所にあるという事実。これは、とてつもない事実である。無理が無理ではない、不可能が不可能ではない。なんということだ、この事実を正面から受け止める事が出来たのならば、世界はひっくり返るぞ。ニュートンの林檎である。認識が一変する。宇宙にさえ手が届く、いわんや、否、これはもう言うまでもあるまい。

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