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【随想】芥川龍之介『偸盗』①

「何か用でもおありか」
「いや、別に用じゃない」
 隻眼は、うすい痘痕のある顔に、強いて作ったらしい微笑をうかべながら、何処か無理のある声で、快活にこう云った。
「唯、沙金がこの頃は、どこにいるかと思ってな」
「用のあるは、何時も娘ばかりさね。鳶が鷹を生んだおかげには」
 猪熊の婆は、厭味らしく、唇を反らせながら、にやついた。
「用と云う程の用じゃないが、今夜の手筈も、まだ聞かないからな」
「なに、手筈に変りがあるものかね。集るのは羅生門、刻限は亥の上刻――みんな昔から、きまっている通りさ」
 老婆は、こう云って、狡猾そうに、じろじろ、左右を見まわしたが、人通りのないのに安心したのか又、厚い唇をちょいと甞めて、
「家内の容子は、大抵娘が探って来たそうだよ。それも、侍たちの中には、手の利く奴がいるまいと云う事さ。詳しい話は、今夜娘がするだろうがね」
 これを聞くと、太郎と云われた男は、日をよけた黄紙の扇の下で、嘲るように、口を歪めた。
「じゃ、沙金は又、誰かあすこの侍とでも、懇意になったのだな」
「なに、やっぱり販婦か何かになって、行ったらしいよ」
「何になって行ったって、あいつの事だわ、当てになるものか」
「お前さんは、不相変疑り深いね。だから、娘に嫌われるのさ。嫉妬にも、程があるよ」

芥川龍之介『偸盗』(短編集『地獄変・偸盗』)新潮社,1968

 その上、貌も変れば、心も変った。始めて娘と今の夫との関係を知った時、自分は、泣いて騒いだ覚えがある。が、こうなって見れば、それも、当り前の事としか思われない。盗みをする事も、人を殺す事も、慣れれば、家業と同じである。云わば京の大路小路に、雑草がはえたように、自分の心も、もう荒んだ事を、苦にしない程、荒んでしまった。が、一方から見れば又、すべてが変ったようで、変っていない。娘の今している事と、自分の昔した事とは、存外似よった所がある。あの太郎と次郎とにしても、やはり今の夫の若かった頃と、やる事に大した変りはない。こうして人間は、何時までも同じ事を繰返して行くのであろう。そう思えば、都も昔の都なら、自分も昔の自分である。…………

同上

「だが、次郎さん、お気をつけよ」
 猪熊の婆は、ふと太郎の顔を思い浮べたので、独り苦笑を浮べながら、こう云った。
「娘の事じゃ、随分兄さんも、夢中になり兼ねないからね」
 が、これは、次郎の心に、思ったよりも大きな影響を与えたらしい。彼は、秀でた眉の間を、俄に曇らせながら、不快らしく眼を伏せた。
「そりゃ私も、気をつけている」
「気をつけていてもさ」
 老婆は、聊、相手の感情の、この急激な変化に驚きながら、例の如く唇を舐め舐め、呟いた。
「気をつけていてもだわね」
「しかし、兄貴の思惑は兄貴の思惑で、私には、どうにも出来ないじゃないか」
「そう云えば、実も蓋もなくなるがさ。実は私は、昨日娘に会ったのだよ。すると、今日未の下刻に、お前さんと立本寺の門の前で、会う事になっていると云うじゃないか。それで、お前さんの兄さんには半月近くも、顔は合せないようにしているとね、太郎さんがこんな事を知ってごらん。又、お前さん、一悶着だろう」
 次郎は、老婆の娓々として説く語を遮るように、黙って、苛立しく何度も頷いた。が、猪熊の婆は、容易に口を閉ざしそうな気色もない。
「さっき、向うの辻で、太郎さんに遇った時にも、私はよくそう云って来たけれどね、そうなりゃ、私たちの仲間だもの、すぐに刃物三昧だろうじゃないか。万一、その時のはずみで、娘に怪我でもあったら、と私は、唯、それが心配なのさ。娘は、何しろあの通りの気質だし、太郎さんにしても、一徹人だから、私は、お前さんによく頼んで置こうと思ってね。お前さんは、死人が犬に食われるのさえ、見ていられない程、やさしいんだから」

同上

 コンプレックスは様々な形で表出する。強気、弱気、尊大、卑下、傲慢、見栄、そして自己破壊。見たくないものを見ない為には、見たくないものを見たいものにすればいい。考えたくないものを考えない為には、考えたくないことに溺れてしまえばいい。痛みは別の痛みで上塗りすればいい。傷を負ったのなら、治すよりも寧ろ傷を深くしてしまえばいい、痛みを痛みと感じなくなるまで。叶わぬ望みが無ければ生きられない、そんな無知で不器用で打たれ強い人間には、そうした人間にしか出来ない凌ぎ方がある。

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