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【随想】太宰治『古典風』

「ネロの伝記だ。暴君ネロ。あいつだって、そんなに悪い奴でも無かったのさ。」不覚にも蒼ざめている。美濃は自身のその興奮に気づいて、無理に、にやにや笑いだした。

太宰治『古典風』(『新ハムレット』)新潮社,1974

 自分だけが彼の本心を知っている。心の秘密に、その不安に、絶望に、気付いているのだとひそかにほくそ笑む。勝手に意思疎通が出来ていると思う。地上で唯一の理解者である自分の親愛の情なのだから当然無条件で受け入れられる筈だと確信、果たして友情を示して拒絶され、全ては独り合点であった、自身の願望を相手に投影していただけであった、見えていたのは一から十まで己のみであった、彼は仲間などではなかった、いや自分が彼の仲間ではなかったのだ、彼は最初から自分に何の興味も無かったのだ、そのことに気付いてしまった。世界は己独りだと気付いてしまった。
 ならばもういい。もうどうでもいい。この世界には己の他誰も居ないのだから、もうどうなってもいい。何もかも感情に委ねよう。怒りが湧けば破壊し、悲しみが湧けば泣こう。何も考えまい。考えるのをやめて、狂ってしまおう。

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