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【随想】芥川龍之介『地獄変』

 と申しますのは、良秀が、あの一人娘の小女房をまるで気違いのように可愛がっていた事でございます。先刻申し上げました通り、娘も至って気のやさしい、親思いの女でございましたが、あの男の子煩悩は、決してそれにも劣りますまい。何しろ娘の着る物とか、髪飾とかの事と申しますと、どこの御寺の勧進にも喜捨をした事のないあの男が、金銭には更に惜し気もなく、整えてやると云うのでございますから、嘘のような気が致すではございませんか。

芥川龍之介『地獄変』(短編集『地獄変・偸盗』)新潮社,1968

 が、その中でも殊に一つ目立って凄じく見えるのは、まるで獣の牙のような刀樹の頂きを半ばかすめて(その刀樹の梢にも、多くの亡者が纍々と、五体を貫かれておりましたが)中空から落ちて来る一輛の牛車でございましょう。地獄の風に吹き上げられた、その車の簾の中には、女御、更衣にもまがうばかり、綺羅びやかに装った女房が、丈の黒髪を炎の中になびかせて、白い頸を反らせながら、悶え苦しんでおりますが、その女房の姿と申し、又燃えしきっている牛車と申し、何一つとして炎熱地獄の責苦を偲ばせないものはございません。云わば広い画面の恐ろしさが、この一人の人物に輳っているとでも申しましょうか。これを見るものの耳の底には、自然と物凄い叫喚の声が伝わって来るかと疑う程、入神の出来映えでございました。
 ああ、これでございます。これを描く為めに、あの恐ろしい出来事が起ったのでございます。又さもなければ如何に良秀でも、どうしてかように生々と奈落の苦艱が画かれましょう。

同上

 それが始めは唯、声でございましたが、暫くしますと、次第に切れ切れな語になって、云わば溺れかかった人間が水の中で呻るように、かような事を申すのでございます。
「なに、己に来いと云うのだな。――どこへ――どこへ来いと? 奈落へ来い。炎熱地獄へ来い。――誰だ。そう云う貴様は。――貴様は誰だ――誰だと思ったら」
 弟子は思わず絵の具を溶く手をやめて、恐る恐る師匠の顔を、覗くようにして透して見ますと、皺だらけな顔が白くなった上に大粒な汗を滲ませながら、脣の干いた、歯の疎な口を喘ぐように大きく開けております。そうしてその口の中で、何か糸でもつけて引張っているかと疑う程、目まぐるしく動くものがあると思いますと、それがあの男の舌だったと申すではございませんか。切れ切れな語は元より、その舌から出て来るのでございます。
「誰だと思ったら――うん、貴様だな。己も貴様だろうと思っていた。なに、迎えに来たと? だから来い。奈落へ来い。奈落には――奈落には己の娘が待っている」

同上

「なに、描けぬ所がある?」
「さようでございまする。私は総じて、見たものでなければ描けませぬ。もし描けても、得心が参りませぬ。それでは描けぬも同じ事でございませぬか」
 これを御聞きになると、大殿様の御顔には、嘲るような御微笑が浮びました。
「では地獄変の屏風を描こうとすれば、地獄を見なければなるまいな」

同上

 その火の柱を前にして、凝り固まったように立っている良秀は、――何と云う不思議な事でございましょう。あのさっきまで地獄の責苦に悩んでいたような良秀は、今は云いようのない輝きを、さながら恍惚とした法悦の輝きを、皺だらけな満面に浮べながら、大殿様の御前も忘れたのか、両腕をしっかり胸に組んで、佇んでいるではございませんか。それがどうもあの男の眼の中には、娘の悶え死ぬ有様が映っていないようなのでございます。唯美しい火焰の色と、その中に苦しむ女人の姿とが、限りなく心を悦ばせる――そう云う景色に見えました。

同上

 炎熱、氷寒、針刺、槌撲、刃刻、粉擂、雷打、遅裂、鋭くも鈍く、冷たくも熱く、柔らかくも硬く、永遠よりも長い一瞬一瞬の苦しみに、死ぬことさえできずに悶え続ける地獄。死んでも許されぬ地獄とは、何と恐ろしい所だろう。己が命を差し出しても許されぬ地獄が、そんな地獄が此岸にあるとは、何と恐ろしい事実だろう。

 肉体の全神経が現実の光景を拒否した時、魂は破壊され、人は死せども死せぬ生ける屍と化す。肉の塊と化す。脳など、いざとなれば頼りない。魂は、電気ではない。磁石で動かせる程、生命は単純ではない。「死」という言葉が、こんなに不自由で、軽くて、無価値なものだなんて、こんなに苦しまなければ、分からなかっただろう。こんな時は、血流を感じたい、心臓の鼓動よりも確かな感触、時空と生命の結晶である、血流を感じたい。太陽は明るすぎる、光は赤を透明にする、この体は、星より大きな河に流れていく。地獄だ。地獄。地獄。地獄だ。生まれようが、生まれまいが、死のうが、死ぬまいが、地獄だ。全部が全部、溶けてしまう。肉、やがて風解し、何も、無いことにする。

 きっとこうなる。本当に本当の地獄に墜ちた時は、きっとこうなると思う。

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素晴らしいことです素晴らしいことです