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【随想】芥川龍之介『偸盗』②

(猪熊の婆の云ったように、沙金を次郎に奪われると云う惧は、漸く目の前に迫って来た。あの女が、――現在養父にさえ、身を任せたあの女が、痘痕のある、隻眼の、醜い己を、日にこそ焼けているが目鼻立ちの整った、若い弟に見かえるのは、元より何の不思議もない。己は、唯、次郎が、――子供の時から、己を慕ってくれたあの次郎が、己の心もちを察してくれて、よしや沙金の方から手を出してもその誘惑に乗らないだけの、慎しみを持ってくれる事と、一図に信じ切っていた。が、今になって考えれば、それは、弟を買かぶった、虫のいい量見に過ぎなかった。いや、弟を見上げすぎたと云うよりも、沙金の淫な媚びのたくみを、見下げすぎた誤りだった。独り次郎ばかりではない。あの女の眼ざし一つで、身を亡ぼした男の数は、この炎天にひるがえる燕の数よりも、沢山ある。現にこう云う己でさえ、唯一度、あの女を見たばかりで、とうとう今のように、身を堕した。…………)

芥川龍之介『偸盗』(短編集『地獄変・偸盗』)新潮社,1968

 己と弟とは、気だてが変っているようで、実は見かけ程、変っていない。尤も顔貌は、七八年前の痘瘡が、己には重く、弟には軽かったので、次郎は、生れついた眉目をその儘に、うつくしい男になったが、己はその為に隻眼つぶれた、生まれもつかない不具になった。その醜い、隻眼の己が、今まで沙金の心を捕えていたとすれば、(これも、己のうぬ惚れだろうか)それは己の魂の力に相違ない。そうして、その魂は、同じ親から生まれた弟も、己に変りなく持っている。しかも、弟は、誰の眼にも己よりはうつくしい。そう云う次郎に、沙金が心を惹かれるのは、元より理の当然である。その上又、次郎の方でも、己にひきくらべて考えれば、到底あの女の誘惑に、勝てようとは思われない。いや、己は、始終己の醜い顔を恥じている。そうして、大抵の情事には、自らひかえ目になっている。それでさえ、沙金には、気違いのように、恋をした。まして、自分の美しさを知っている次郎が、どうして、あの女の見せる媚びを、返さずにいられよう。――

同上

 しかし、兄には、自分のこの苦しみがわからない。唯一図に、自分を、恋の敵だと思っている。自分は、兄に罵られてもいい。顔に唾されてもいい。或は場合によっては、殺されてもいい。が、自分が、どの位自分の不義を憎んでいるか、どの位兄に同情しているか、それだけは、察していて貰いたい。その上でならば、どんな死に様をするにしても、兄の手にかかれば、本望だ。いや、寧、この頃の苦しみよりは、一思いに死んだ方が、どの位仕合せだかわからない。

同上

 沙金は、石段の上に腰を下すか下さないのに、市女笠をぬいで、こう云った。小柄な、手足の動かし方に猫のような敏捷さがある。中肉の、二十五六の女である。顔は、恐しい野性と異常な美しさとが、一つになったとでも云うのであろう、狭い額とゆたかな頬と、鮮な歯と淫な唇と、鋭い眼と鷹揚な眉と、――すべて、一つになり得そうもないものが、不思議にも一つになって、しかもそこに、爪ばかりの無理もない。が、中でも見事なのは、肩にかけた髪で、これは、日の光の加減によると、黒い上につややかな青みが浮く。さながら、烏の羽根と違いがない。次郎は、何時見ても変らない女のなまめかしさを、寧憎いように感じたのである。
「そうして、お前さんの情人なんだろう」
 沙金は、眼を細くして笑いながら、無邪気らしく、首をふった。
「あいつの莫迦と云ったら、ないのよ。妾の云う事なら、何でも、犬のようにきくじゃないの。おかげで、何も彼も、すっかりわかってしまった」

同上

「あなたの為にしたの」
「どうして?」
 こう云いながら、次郎の心には、恐しい或ものが感じられた。まさか――
「まだわからない? そう云って置いて、太郎さんに、馬を盗む事を頼めば――ね。いくら何だって、一人じゃかなわないでしょう。いえさ、外のものが加勢をしたって、知れたものだわ。そうすれば、あなたも妾も、いいじゃないの」
 次郎は、全身に水を浴びせられたような心もちがした。
「兄貴を殺す!」
 沙金は、扇を弄びながら、素直に頷いた。

同上

 人は人と言葉を交わしながら絶えず己と対話している。誰かに心奪われている時も、誰かを褒めている時も、殺したい程誰かを憎んでいる時でさえ、瞳に写る他人の瞳に写る自分自身を見つめている。自分の意識を離れたかに思える言葉にも常にリードが繋がれていて、たとえ視認出来ない程遠くに行ってしまっても、その存在を感覚している。愛情も殺意も支配願望も、心の空隙を、その空腹感を埋めようと、自ら産み出す吐瀉物。自分で吐いたものをまた喰らう、愚かで醜い人間の本性だ。本当は、誰にも確かな意思などなくて、確かな認識などなくて、他人など何処にもいなくて、世界さえ誂えられた舞台でしかなくて、全部全部唯の独り言なんじゃないかと、思えてくる。それは愛している時も、愛されている時も。

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