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【随想】太宰治『道化の華』
大庭葉蔵。
笑われてもしかたがない。鵜のまねをする烏。見ぬく人には見ぬかれるのだ。よりよい姓名もあるのだろうけれど、僕にはちょっとめんどうらしい。いっそ「私」としてもよいのだが、僕はこの春、「私」という主人公の小説を書いたばかりだから二度つづけるのがおもはゆいのである。僕がもし、あすにでもひょっくり死んだとき、あいつは「私」を主人公にしなければ、小説を書けなかった、としたり顔して述懐する奇妙な男が出て来ないとも限らぬ。ほんとうは、それだけの理由で、僕はこの大庭葉蔵をやはり押し通す。おかしいか。なに、君だって。
僕はまえにも言いかけて置いたが、彼等の議論は、お互いの思想を交換するよりは、その場の調子を居心地よくととのうるためになされる。なにひとつ真実を言わぬ。けれども、しばらく聞いているうちには、思わぬ拾いものをすることがある。彼等の気取った言葉のなかに、ときどきびっくりするほど素直なひびきの感ぜられることがある。
僕はもう何も言うまい。言えば言うほど、僕はなんにも言っていない。
小菅は葉蔵をふびんだと思った。それは全く、おとなの感情である。言うまでもないことだろうけれど、ふびんなのはここにいるこの葉蔵ではなしに、葉蔵とおなじ身のうえにあったときの自分、もしくはその身のうえの一般的な抽象である。おとなは、そんな感情にうまく訓練されているので、たやすく人に同情する。そして、おのれの涙もろいことに自負を持つ。
ひと一人を殺したあとらしくもなく、彼等の態度があまりにのんきすぎるろ忿懣を感じていたらしい諸君は、ここにいたってはじめて快哉を叫ぶだろう。ざまを見ろと。しかし、それは酷である。なんの、のんきなことがあるものか。つねに絶望のとなりにいて、傷つき易い道化の華を風にもあてずつくっているこのもの悲しさを君が判って呉れたならば!
青年たちは、むきになっては、何も言えない。ことに本音を、笑いでごまかす。
僕こそ、渾沌と自尊心のかたまりでなかったろうか。この小説も、ただそれだけのものでなかったろうか。ああ、なぜ僕はすべてに断定をいそぐのだ。すべての思念にまとまりをつけなければ生きて行けない、そんなけちな根性をいったい誰から教わった?
恐怖のない、後悔のない、満足な死とは。
嘘は誰に教わるのだろう。いつの間にか嘘吐きになっていた。
人間と人間の関係は、近くて遠い。誰でもいいし、何だっていい。本当は全部どうだっていい。何もかも大したことじゃない。全ては思い込み、自分に思い込ませている。誰よりも自分に対してこそ嘘吐きだ。
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