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【随想】太宰治『畜犬談』

私は、犬をきらいなのである。早くからその狂暴の猛獣性を看破し、こころよからず思っているのである。たかだか日に一度や二度の残飯の投与にあずからんが為に、友を売り、妻を離別し、おのれの身ひとつ、その家の軒下に横たえ、忠義顔して、かつての友に吠え、兄弟、父母をも、けろりと忘却し、ただひたすらに飼主の顔色を伺い、阿諛追従てんとして恥じず、ぶたれても、きゃんと言い尻尾まいて閉口して見せて家人を笑わせ、その精神の卑劣、醜怪、犬畜生とは、よくも言った。

太宰治『畜犬談』(短編集『きりぎりす』)新潮社,1974

「喧嘩しては、いけないよ。喧嘩をするなら、僕からはるか離れたところで、してもらいたい。僕は、おまえを好いてはいないんだ」
 少し、ポチにもわかるらしいのである。そう言われると多少しょげる。いよいよ私は犬を、薄気味わるいものに思った。その私の繰り返し繰り返し言った忠告が効を奏したのか、あるいは、かのシェパアドとの一戦にぶざまな惨敗を喫したせいか、ポチは、卑屈なほど柔弱な態度をとりはじめた。私と一緒に路を歩いて、他の犬がポチに吠えかけると、ポチは、
「ああ、いやだ、いやだ。野蛮ですねえ」
 と言わんばかり、ひたすら私の気に入られようと上品ぶって、ぶるっと胴震いさせたり、相手の犬を、仕方のないやつだね、とさもさも憐れむように流し目で見て、そうして、私の顔色を伺い、へっへっへっと卑しい追従笑いするかの如く、その様子のいやらしいったら無かった。

同上

 私も、もう大人である。いたずらな感傷は無かった。すぐ事態を察知した。薬品が効かなかったのだ。うなずいて、もうすでに私は、白紙還元である。家へ帰って、
「だめだよ。薬が効かないのだ。ゆるしてやろうよ。あいつには、罪が無かったんだぜ。芸術家は、もともと弱い者の味方だった筈なんだ」私は、途中で考えて来たことをそのまま言ってみた。「弱者の友なんだ。芸術家にとって、これが出発で、また最高の目的なんだ。こんな単純なこと、僕は忘れていた。僕だけじゃない。みんなが、忘れているんだ。僕は、ポチを東京へ連れて行こうと思うよ。友達がもしポチの恰好を笑ったら、ぶん殴ってやる。卵あるかい?」
「ええ」家内は、浮かぬ顔をしていた。
「ポチにやれ。二つ在るなら、二つやれ。おまえも我慢しろ。皮膚病なんてのは、すぐなおるよ」
「ええ」家内は、やはり浮かぬ顔をしていた。

同上

 犬の群れで育った猫はまるで犬の様に振る舞う。人に育てられた犬が人の様に振る舞うのはそれは自然な適応なのだろう。そうする事が生きるという事であると体得すれば、それは極自然な日常の態度となりストレスも感じなくなる。人の生活もそうする事が自然な振る舞いとなるまで繰り返せば、平たく言ってそれに慣れてしまえば、不満や不安は感じなくなるのだろう。適応する、順応するというのは生命が持つ傑出した能力ではないだろうか。ある方向性を示してやることにより、無数回の複製増殖の過程が赤を白にも変えてしまう。変わり続ける事が生命の条件であるならば、何を以て個体を個体たらしめるというのか。個とは何か。自己と他を分ける境界などというものは本当に在るのか。まとまって移動し変化する小部分の集合体を特定して個体と呼ぶのだとしても、特定するからにはそこに共通概念がある筈、そういうものだという先入観がある筈、仮にそれは先験的なものだとしても、それも遺伝子の経験に基づく偏見ではないのか。区分する基準を言葉で説明出来ないのなら、それが他者から伝達されたものという事は有り得ない、何故なら言葉無くして概念は表現出来ないから。基準が自己の中にある以上、自己を自己と認識する心は甚だ曖昧な皮膚感覚とでも呼ばれる何かに依存しているのではないか。要するに生物は矛盾した認識の重なりの中に生きていて、生きていると死んでいるとの区別さえ、本当は決定されていないではないか。何だかもう、何が何やら。

 以上、己を語らずしてユーモアは成らずと察した迷走する妄想癖者の小演説。

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