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【随想】太宰治『新郎』

 このごろ私は、毎朝かならず鬚を剃る。歯も綺麗に磨く。足の爪も、手の爪も、ちゃんと切っている。毎日、風呂へはいって、髪を洗い、耳の中も、よく掃除して置く。鼻毛なんかは、一分も伸ばさぬ。眼の少し疲れた時には、眼薬を一滴、眼の中に落して、潤いを持たせる。
 純白のさらし木綿を一反、腹から胸にかけてきりりと巻いている。いつでも、純白である。パンツも純白のキャラコである。之も、いつでも純白である。そうして夜は、ひとり、純白のシイツに眠る。
 書斎には、いつでも季節の花が、活き活きと咲いている。けさは水仙を床の間の壷に投げ入れた。ああ、日本は、佳い国だ。パンが無くなっても、酒が足りなくなっても、花だけは、花だけは、どこの花屋さんの店頭を見ても、いっぱい、いっぱい、紅、黄、白、紫の色を競い咲き驕っているではないか。この美事さを、日本よ、世界に誇れ!

太宰治『新郎』(短編集『ろまん燈籠』)新潮社,1983

 この世界をこんなに愛しているのに誰にも伝わらない、伝えられない。何度も心を入れ替えた。真摯な気持ちで生きようと、誰も恨まず憎まず全てを愛して生きようと、何度も誓ってきた。でもその度に挫折した。自分を裏切り、他人のせいにして、社会のせいにした。そうして後悔している。また誓い直す。今度こそと、誓い直す。今度こそ愛し愛される人間になろうと、誓い直す。時代が悪いのではない。全ては独りよがり、空回り、それが原因だ。分かっている。忘れても、また思い出す、きっと思い出す。思い出してみせる。忘れないでみせる。誰も悪くない、恨む相手などいよう筈も無い。気付いている、とっくの昔に、小学二年に気付いていた。みんな戦っている。誰も憎んでなどいない。みんな同じ時代に同じ星に共に生きる奇跡のメンバーだ、もう二度とない。だから優しくしよう。そうさ。そうあるべきなんだ。この体はこの時空で生きることを契約された。破棄不可能。いい加減開き直ろうぜ。

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