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【随想】太宰治『善蔵を思う』

 暁雲は、あれは夕焼から生れた子だと。夕陽なくして、暁雲は生れない。夕焼は、いつも思う。「わたくしは、疲れてしまいました。わたくしを、そんなに見つめては、いけません。わたくしを愛しては、いけません。わたくしは、やがて死ぬる身体です。けれども、明日の朝、東の空から生れ出る太陽を、必ずあなたの友にしてやって下さい。あれは私の、手塩にかけた子供です。まるまる太ったいい子です」夕焼は、それを諸君に訴えて、そうして悲しく微笑むのである。そのとき諸君は夕焼を、不健康、頽廃、などの暴言で罵り嘲うことが、できるであろうか。できるとも、と言下に答えて腕まくり、一歩まえに進み出た壮士ふうの男は、この世の大馬鹿野郎である。君みたいな馬鹿がいるから、いよいよ世の中が住みにくくなるのだ。

太宰治『善蔵を思う』(短編集『きりぎりす』)新潮社,1974

 相手の言葉も態度も表情も、自身の経験則から導き出した解答を当てはめて理解、正解したという気になっているだけであって、それが示す真実本当の意味は誰にも分からない。見た者は勿論、見せた者さえ分かっていない。そう言われるとそう思える。「あなたが気に入らないからあなたの言葉は内容に関わりなくいつ如何なる時でも不快なものなのです、だから間違いなのです、不快なものは間違っているのです」そんなものだ。
 対話というものにはそもそも主体がない。例えば全ての酸素分子に番号が割り振られていて、決まった番号の酸素を選択的に吸うという事が出来ないのと同様に、思考というのは常に周囲と溶け合い撹拌拡散されており、ここからここまでは自分の思考であると決定し、それを選択して使用するという事は不可能だ。模倣に関して言えば、ありとあらゆるものは模倣したものであり、模倣されるものでもある。個人のアイデンティティという程度の意味であればともかく、厳密な意味でのオリジナルというものは存在しない。
 全ては相対化され陳腐化されると言いたいのではない。要は、拘るな、それだけだ。

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