【随想】宮沢賢治『クンねずみ』
気取り、真似、つもり。即ち自分は○○である、○○であると思い込む。それで果たしてそうなるか。なる訳が無い。猫がどれだけ自分が鳥であると信じ込もうが決して飛ぶことはできない。願望と現実は違う。何かのフリをしている者、それが決して本物ではないことは、皆分かっている。分かっているのに、気に入らない。フリをしている者が、万が一奇跡的な作用により本物になってしまう可能性を予感するから、気に入らない。自分は偽物であると明言して真似をする者については、笑える、許せる、気にならない。しかし自分を本物だと思っている偽物のことは、笑えない、許せない、気に入らない。
人はいつでも何かになりたがっている。願うとは、なろうとすることだ。願いが消えることはない。人の成功を許せない。何故だ。誰かの願いが叶う度に、自分の願いが叶っていないと思い知るからか。偉そうにしている人を許せない。何故だ。偉そうなのは満たされているからだと考えてしまうからか。強そうな人を許せない。何故だ。強いのは恵まれているからだと経験が教えるからか。
許せないとは何だ。何が許せないのだ。許すも許さないもないだろうに。許すとは何だ。何をされたというのだ。嫉妬、焦り、不安、心を暗くする全ての要素を誰かになすりつけ真っ黒になったその人を倒せば気分が晴れるとでも思っているのか。何かになろうとする気持ちは、何かになれない絶望を生む。何かになろうとする気持ちは、何かになれるという希望を生む。絶望も、希望も、生んだのは己自身だ。自分が生んだものに苦しめられるなんて、馬鹿々々しい、でもそれが生きるということだ。願いを生み、願いに苦しみ、願いに導かれ、歩みを進める。なろう、なろう、明日はなろう。きっとなろう。そうなろう。
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