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【随想】太宰治『お伽草紙』

つまり、この物語には所謂「不正」の事件は、一つも無かったのに、それでも不幸な人が出てしまったのである。それゆえ、この瘤取り物語から、日常倫理の教訓を抽出しようとすると、たいへんややこしい事になって来るのである。それでは一体、何のつもりでお前はこの物語を書いたのだ、と短気な読者が、もし私に詰寄って質問したなら、私はそれに対してこうでも答えて置くより他はなかろう。
 性格の悲喜劇というものです。人間生活の底には、いつも、この問題が流れています。
(『瘤取り』)

太宰治『お伽草紙』(短編集『お伽草紙』)新潮社,1972

「ぷ!」と亀はまた噴き出し、「その先人の道こそ、冒険の道じゃありませんか。いや、冒険なんて下手な言葉を使うから何か血なまぐさくて不衛生な無頼漢みたいな感じがして来るけれども、信じる力とでも言い直したどうでしょう。あの谷の向う側にたしかに美しい花が咲いていると信じ得た人だけが、何の躊躇もなく藤蔓にすがって向う側に渡って行きます。それを人は曲芸かと思って、或いは喝采し、或いは何の人気取りめがと顰蹙します。しかし、それは絶対に曲芸師の綱渡りとは違っているのです。藤蔓にすがって谷を渡っている人は、ただ向う側の花を見たいだけなのです。自分がいま冒険しているなんて、そんな卑俗な見栄みたいなものは持ってやしないんです。なんの冒険が自慢になるものですか。ばかばかしい。信じているのです。花のある事を信じ切っているのです。そんな姿を、まあ、仮に冒険と呼んでいるだけです。あなたに冒険心が無いというのは、あなたには信じる能力が無いという事です。信じる事は、下品ですか。信じる事は、邪道ですか。どうも、あなたがた紳士は、信じない事を誇りにして生きているのだから、しまつが悪いや。それはね、頭のよさじゃないんですよ。もっと卑しいものなのですよ。吝嗇というものです。損をしたくないという事ばかり考えている証拠ですよ。御安心なさい。誰も、あなたに、ものをねだりやしませんよ。人の深切をさえ、あなたたちは素直に受取る事を知らないんだからなあ。あとのお返しが大変だ、なんてね。いや、どうも、風流の士なんてのは、ケチなもんだ。」
(『浦島さん』)

同上

 疑うものは、この気の毒な狸を見るがよい。狸は、そのようなアルテミス型の兎の少女に、かねてひそかに思慕の情を寄せていたのだ。兎が、このアルテミス型の少女だったと規定すると、あの狸が婆汁か引掻き傷かいずれの罪を犯した場合でも、その懲罰が、へんに意地くね悪く、そうして「男らしく」ないのが当然だと、溜息と共に首肯せられなければならぬわけである。しかも、この狸たるや、アルテミス型の少女に惚れる男のごたぶんにもれず、狸仲間でも風采あがらず、ただ団々として、愚鈍大食の野暮天であったというに於いては、その悲惨のなり行きは推するに余りがある。
(『カチカチ山』)

同上

 作品はそれが不特定多数の目に晒されることを前提としているのなら、時代による価値基準の変化も覚悟せねばならない。それが作られた時代には善であったことが時代が下ると悪とされる。ほぼ全ての作品はやがてそうなる運命だ。作品は歴史的変化も含めて作品である。見る者により解釈は常に異なる。時代毎に一定の共通認識はあるようだが、それさえ保証の限りではない。いらぬ角が立たぬように暗黙の了解で擦り合わせている面が多分にある。肉体的制約もあるのだろうが、遺伝的特徴や育った環境の違いで生物の思考はほとんど無限に変化する。猫が犬のように振る舞うのも別段珍しいことではない。
 お伽話の解釈も得られる教訓もまた人や時代により千差万別。一応常識とされる解答は用意されているが、それに従う義務など無い。知識の一つとして押さえておけばいいだけだ。
 桃太郎一家が実は裏で鬼たちと示し合わせており、あれは貧困老夫婦による人生最後一世一代の大博打、壮大なショービジネスではなかった、という証拠など無いのだ。

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