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【随想】芥川龍之介『西方の人』②

――クリストは伝記作者の記した通り、彼等の訊問や嘲笑には何の答えもしなかったであろう。のみならず何の答えをすることも出来なかったことは確かである。しかしバラバは頭を挙げて何ごとも明らかに答えたであろう。バラバは唯彼の敵に叛逆している。が、クリストは彼自身に、――彼自身の中のマリアに叛逆している。それはバラバの叛逆よりも更に根本的な叛逆だった。同時に又「人間的な、余りに人間的な」叛逆だった。

芥川龍之介『西方の人』(短編集『侏儒の言葉・西方の人』)新潮社,1968

 我々は唯茫々とした人生の中に佇んでいる。我々に平和を与えるものは眠りの外にある訣はない。あらゆる自然主義者は外科医のように残酷にこの事実を解剖している。しかし聖霊の子供たちはいつもこう云う人生の上に何か美しいものを残して行った。何か「永遠に超えようとするもの」を。

同上

クリストの一生は見じめだった。が、彼の後に生まれた聖霊の子供たちの一生を象徴していた。(ゲエテさえも実はこの例に洩れない。)クリスト教は或は滅びるであろう。少くとも絶えず変化している。けれどもクリストの一生はいつも我々を動かすであろう。それは天上から地上へ登る為に無残にも折れた梯子である。薄暗い空から叩きつける土砂降りの雨の中に傾いたまま。………

同上

 誰よりも母を愛する者は、同時に誰よりも母を憎んでいる。母が魂の中から消えない限り、この世界の真理には決して辿り着けないからである。母は世界の根源にして、世界を覆う暗幕である。あらゆる人は自由を希求する。それなのに、大抵は目の前にした自由に恐怖を感じ、自ら足枷を嵌めてしまう。それは愛や憎悪や夢や希望という形をとる。凡夫はどこまでもいっても本当の意味で孤独にはなれない。愛や夢ばかり見て、自分自身から目を背け続けて生きる。彼らに意志は無い。ただひたすらに時を消費し、いつか誰かに裁かれるのを待つのみである。華やかな偽りの世界に身を埋め、無意味と知りながら社会的成功を追求する。何も知らない。彼らは何も知ることはない。死ぬまで、そして死んでからも。知らない彼らは死んだら終わりである。知っている彼には、死は一つの通過点に過ぎない。天国とは何か。天国は何処にあるのか。知らない彼らは知らないし、知ることはない。知っている彼は知っているし、いずれ知ることになる。現象された世界ではなく、世界が発生する前の根源世界に生きる彼にとって、受肉し物質化されていた時間など、取るに足らない一瞬間でしかないのである。それでも彼は、母に囚われた平凡な人々を導こうとした。彼の知る世界に連れて行こうとした。ところがそんな彼の思いは、無能な後世によって単なる処世術に変えられてしまったのだった。

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