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【随想】太宰治『虚構の春』

自信さえあれば、万事はそれでうまく行く。文壇も社会も、みんな自信だけの問題だと、小生痛感している。その自信を持たしてくれるのは、自分の仕事の出来栄えである。循環する理論である。だから自信のあるものが勝ちである。

百日くらいまえに私はかれの自宅の病室を見舞ったのでございます。月光が彼のベッドのあらゆるくぼみに満ちあふれ、掬えると思いました。高橋は、両の眉毛をきれいに剃り落していました。能面のごとき端正の顔は、月の光の愛撫に依り金属のようにつるつるしていました。名状すべからざる恐怖のため、膝頭が音たててふるえるので、私は電気をつけようと嗄れた声で主張いたしました。そのとき、高橋の顔に、三歳くらいの童子の泣きべそに似た表情が一瞬ぱっと開くより早く消え失せた。『まるで気違いみたいだろう?』ともちまえの甘えるような鼻声で言って、寒いほど高貴の笑顔に化していった。私は、医師を呼び、あくる日、入院させた。高橋は静かに、謂わば、そろそろと、狂っていったのである。

私は今迄、自己を語る場合に、どうやら少しはにかみ過ぎていたようだ。きょうよりのち、私は、あるがままの自身を語る。それだけのことである。(一行あき。)語らざれば憂い無きに似たり、とか。私は言葉を軽蔑していた。瞳の色でこと足りると思っていた。けれども、それは、この愚かしき世の中には通じないことであった。苦しいときには、『苦しい!』とせいぜい声高に叫ばなければいけないようだ。黙っていたら、いつしか人は、私を馬扱いにしてしまった。

引用:太宰治『虚構の春』(短編集『二十世紀旗手』),新潮文庫,1972年

もしそんなことが出来るのなら、自分の記憶を取り出し記憶された順番に並べてみたい。その遍歴を振り返ってみたい。勿論あらゆる記憶は互いに連関し、影響を与え合い、混ざり、入れ替わり、上書きされて、記憶された日時も記憶された時の状況もその原型をとどめているものは無いのだろうけれど、それでも全てを一遍に見てみれば、何らかの取捨選択の法則、記憶の原理原則のようなものが現れるのではないだろうか。それは数式というよりも絵に近いもののような気がする。そしてそれはどんなに詳細な日記よりも自身の人生を雄弁に物語るに違いない。記録は被記録者の当時の心理にこそ価値がある。行動はその心理から導かれた単なる結果、記号に過ぎない。記号に意味を与える者こそがその本質である。AIの擬似生命化とは、自己言及を可能にしたり深層学習の深度を大きくするといったことではなく、記号を記号外から見る視点の獲得にあるのではないだろうか。

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