引用:太宰治『虚構の春』(短編集『二十世紀旗手』),新潮文庫,1972年
もしそんなことが出来るのなら、自分の記憶を取り出し記憶された順番に並べてみたい。その遍歴を振り返ってみたい。勿論あらゆる記憶は互いに連関し、影響を与え合い、混ざり、入れ替わり、上書きされて、記憶された日時も記憶された時の状況もその原型をとどめているものは無いのだろうけれど、それでも全てを一遍に見てみれば、何らかの取捨選択の法則、記憶の原理原則のようなものが現れるのではないだろうか。それは数式というよりも絵に近いもののような気がする。そしてそれはどんなに詳細な日記よりも自身の人生を雄弁に物語るに違いない。記録は被記録者の当時の心理にこそ価値がある。行動はその心理から導かれた単なる結果、記号に過ぎない。記号に意味を与える者こそがその本質である。AIの擬似生命化とは、自己言及を可能にしたり深層学習の深度を大きくするといったことではなく、記号を記号外から見る視点の獲得にあるのではないだろうか。