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【随想】芥川龍之介『おぎん』

 代官は天主のおん教は勿論、釈迦の教も知らなかったから、なぜ彼等が剛情を張るのか、さっぱり理解が出来なかった。時には三人が三人とも、気違いではないかと思う事もあった。しかし気違いでもない事がわかると、今度は大蛇とか一角獣とか、兎に角人倫には縁のない動物のような気がし出した。そう云う動物を生かして置いては、今日の法律に違うばかりか、一国の安危にも関る訣である。そこで代官は一月ばかり、土の牢に彼等を入れて置いた後、とうとう三人とも焼き殺す事にした。(実を云えばこの代官も、世間一般の代官のように、一国の安危に関るかどうか、そんな事は殆ど考えなかった。これは第一に法律があり、第二に人民の道徳があり、わざわざ考えて見ないでも、格別不自由はしなかったからである)

芥川龍之介『おぎん』(短編集『奉教人の死』)新潮社,1968

「わたしはおん教を捨てました。その訣はふと向うに見える、天蓋のような松の梢に、気のついたせいでございます。あの墓原の松のかげに、眠っていらっしゃる御両親は、天主のおん教も御存知なし、きっと今頃はいんへるのに、お堕ちになっていらっしゃいましょう。それを今わたし一人、はらいその門にはいったのでは、どうしても申し訣がありません。わたしはやはり地獄の底へ、御両親の跡を追って参りましょう。どうかお父様やお母様は、ぜすす様やまりや様の御側へお出でなすって下さいまし。その代りおん教を捨てた上は、わたしも生きては居られません。…………」

同上

 信仰に生きることの意義を、今こそ見つめ直すべきだろう。個人が社会から遊離した現代は、誰も彼も即席の快感で不安を誤魔化している。或いは集合的無意識が産み出した“正義”というルールに身を委ねて、孤独な生物の本質から目を背け、ひたすらに思考放棄している。いや、むしろ思考から逃避している。信仰とは価値観であり、世界の形である。信仰は人に影を与え、即ち人を立体化する。人は画一的な平面世界から立ち上がることで、初めて世界の本当の姿を認識できる。信仰とは、正解を示すものではない。逆に、間違いに気付かせて、自分という存在に疑問を抱かせるものである。自分とは何か、信じるとは何か、それらの疑問と真剣に向き合い、自分なりに答えを創り出すこと、それが本物の自立である。自立して漸くヒトは人になる。信仰という偏見を持たず、世界をただ与えられたままに受けとることは、自己の喪失に他ならないと、現代人は気付かねばならない。信仰が無くても、時を過ごせてしまう、生きている気になれてしまう、そんな現代こそ、信仰が必要だ。信仰に生きる意義を、取り戻すべきだ。

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