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【随想】太宰治『魚服記』
黄昏時になると父親は炭小屋から、からだ中を真黒にしてスワを迎えに来た。
「なんぼ売れた」
「なんも」
「そだべ、そだべ」
父親はなんでもなさそうに呟きながら滝を見上げるのだ。それから二人して店の品物をまた手籠へしまい込んで、炭小屋へひきあげる。
そんな日課が霜のおりるころまでつづくのである。
「お父」
スワは父親のうしろから声をかけた。
「おめえ、なにしに生きでるば」
父親は大きい肩をぎくっとすぼめた。スワのきびしい顔をしげしげ見てから呟いた。
「判らねじゃ」
スワは手にしていたすすきの葉を嚙みさきながら言った。
「くたばった方あ、いいんだに」
父親は平手をあげた。ぶちのめそうと思ったのである。しかし、もじもじと手をおろした。スワの気が立って来たのをとうから見抜いていたが、それもスワがそろそろ一人前のおんなになったからだな、と考えてそのときは堪忍してやったのであった。
「そだべな、そだべな」
スワは、そういう父親のかかりくさのない返事が馬鹿くさくて馬鹿くさくて、すすきの葉をべっべっと吐き出しつつ、
「阿呆、阿呆」
と呶鳴った。
夜になると風がやんでしんしんと寒くなった。こんな妙に静かな晩には山できっと不思議が起るのである。天狗の大木を伐り倒す音がめりめりと聞えたり、小屋の口あたりで、誰かのあずきをとぐ気配がさくさくと耳についたり、遠いところから山人の笑い声がはっきり響いて来たりするのであった。
滝の音がだんだんと大きく聞えて来た。ずんずん歩いた。てのひらで水洟を何度も拭った。ほとんど足の真下で滝の音がした。
狂い唸る冬木立の、細いすきまから、
「おど!」
とひくく言って飛び込んだ。
思春期の渇き、焦り、怒り。訳の分からぬまま無限に湧き上がる感情の奔流に飲まれ怪行に走る。意味も無く壁を殴り穴を開けた。小学校で作った工作を叩き壊した。頭をぐるぐる振り回し、拳をぐっと固めて自分の腹を思い切り殴った。何度も、何度も、鳩尾に上手くめり込ませる感覚を掴むまで殴った。何でもよかったのだ。思春期は全てが気に入らない。何かを破壊したくてたまらない。
それはきっと無力な自分への不満だった。何もできない自分への憎悪だった。狂った頭で腐った世の中だと思っていた。何もかも間違っている、人間も、社会も、人生も、生まれて来たことも。本気で自殺しようと思った。いつ、どのように死ぬか、そればかり考えていた。詳細な計画をノートに記した。
今、生きている。なぜ自殺を実行しなかったのか、もう覚えていない。計画したことで満足したのかも知れない。変化は億劫だし、実行は面倒だ。あの頃は、生まれた惰性で生きていた。
生き延びた。それは強さ弱さの問題ではない。たまたまだ。だけど。
人生など雑でいい。人生を粗末にしよう。今なら笑って言える。
素晴らしいことです素晴らしいことです