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【随想】宮沢賢治『二十六夜』

 旧暦の六月二十四日の晩でした。
 北上川の水は黒の寒天よりももっとなめらかにすべり獅子鼻は微かな星のあかりの底にまっくろに突き出ていました。
 獅子鼻の上の松林は、もちろんもちろん、まっ黒でしたがそれでも林の中に入って行きますと、その脚の長い松の木の高い梢が、一本一本空の天の川や、星座にすかし出されて見えていました。
 松かさだか鳥だかわからない黒いものがたくさんその梢にとまっているようでした。そして林の底の萱の葉は夏の夜の雫をもうポトポト落して居りました。

宮沢賢治『二十六夜』(童話集『新編 風の又三郎』)新潮社,1989

 その次の日の六月二十五日の晩でした。
 丁度ゆうべと同じ時刻でしたのに、説教はまだ始まらず、あの説教の坊さんは、眼を瞑ってだまって説教の木の高い枝にとまり、まわりにゆうべと同じにとまった沢山の梟どもはなぜか大へんみな興奮している模様でした。女のふくろうにはおろおろ泣いているのもありましたし、男のふくろうはもうとても斯うしていられないというようにプリプリしていました。それにあのゆうべの三人兄弟の家族の中では一番高い処に居るおじいさんの梟はもうすっかり眼を泣きはらして頬が時々びくびく云い、泪は声なくその赤くふくれた眼から落ちていました。

同上

 旧暦六月二十六日の晩でした。そらがあんまりよく霽れてもう天の川の水は、すっかりすきとおって冷たく、底のすなごも数えられるよう、またじっと眼をつぶっていると、その流れの音さえも聞えるよな気がしました。けれどもそれは或は空の高い処を吹いていた風の音だったかも知れません。なぜなら、星がかげろうの向う側にでもあるように、少しゆれたり明るくなったり暗くなったりしていましたから。

同上

 虫や鳥獣は意味も無くむやみに鳴いているのではあるまい。人はときどき奇声を発するけれども、それだってそうするに至る経緯がある。興奮、ストレス、周囲からの感化、怖いもの見たさのような気持ちで叫ぶことだってある。生物が鳴き叫ぶのには理由がある。でもその理由が分からないから、鳴き声は、うるさく感じることはあってもそれ以上の意味があるとは感じない。と、いうより感じようがない。何故鳥は朝方によく鳴くのか。何故犬猫の怒りは唸りとなるのか。何故狼は遠く響く声を発するのか。人間が人間の感覚や習性に沿って人間ならばこうであるから獣もそうであろうと理由付けること、要するに人に都合良く解釈すること、これは科学の本質である。交尾の季節が恋の季節であるとか、つがいの鳥が夫婦であるとか、それらは全て人間というフィルターを通して人間が納得して理解する為の解釈であって、本人たちに聞いてみないことには本当の所は分からない。しかし聞くことはできない。ならばよい、分からなくてもよい、大したことではないと、関心を切り捨てた音波である虫鳥獣の鳴き声は人に何らの興味も感動も与えない。彼らはむやみに鳴いているのではない筈だが、これもまた人は意味もなく音声を発しないという人間的フィルターを通して形成された勝手な決め付けなのかも知れない。そうすると、全ては独り合点ということか。虚しくなると同時に、開き直る根拠という希望も見えてくる。

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