虫や鳥獣は意味も無くむやみに鳴いているのではあるまい。人はときどき奇声を発するけれども、それだってそうするに至る経緯がある。興奮、ストレス、周囲からの感化、怖いもの見たさのような気持ちで叫ぶことだってある。生物が鳴き叫ぶのには理由がある。でもその理由が分からないから、鳴き声は、うるさく感じることはあってもそれ以上の意味があるとは感じない。と、いうより感じようがない。何故鳥は朝方によく鳴くのか。何故犬猫の怒りは唸りとなるのか。何故狼は遠く響く声を発するのか。人間が人間の感覚や習性に沿って人間ならばこうであるから獣もそうであろうと理由付けること、要するに人に都合良く解釈すること、これは科学の本質である。交尾の季節が恋の季節であるとか、つがいの鳥が夫婦であるとか、それらは全て人間というフィルターを通して人間が納得して理解する為の解釈であって、本人たちに聞いてみないことには本当の所は分からない。しかし聞くことはできない。ならばよい、分からなくてもよい、大したことではないと、関心を切り捨てた音波である虫鳥獣の鳴き声は人に何らの興味も感動も与えない。彼らはむやみに鳴いているのではない筈だが、これもまた人は意味もなく音声を発しないという人間的フィルターを通して形成された勝手な決め付けなのかも知れない。そうすると、全ては独り合点ということか。虚しくなると同時に、開き直る根拠という希望も見えてくる。