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【随想】太宰治『正義と微笑』②

七月十日から一学期の本試験がはじまっている。あす一日で、終るのだ。それから一週間経つと、成績の発表があって、それから、いよいよ夏休みだ。うれしい。やっぱり、うれしい。ああ、という叫びが、自然に出て来る。成績なんか、どうでもいい。今学期は思想的にもずいぶん迷ったから、成績もよほど落ちているかも知れない。でも国漢英数だけは、よくなっている積りだが、発表を見ないうちは、確信できない。ああ、もう、夏の休みだ。それを思うと、つい、にこにこ笑ってしまう。明日も試験があるというのに、なんだか日記を書きたくて仕様がない。

太宰治『正義と微笑』(『パンドラの匣』)新潮社,1973

 諸君は四月一日の夜、浅草のネオンの森を、野良犬の如くうろついて歩いていた一人の中学生を見かけなかったか。見かけましたか? 見かけたならば、それならば、なぜその時に、ひとこと「おい、君」と声を掛けてくれなかったの? 僕は君の顔を見上げて、「お友達になって下さい!」とお願いしたに違いない。そうして、君と一緒に烈風の中をさまよい歩きながら、貧しい人を救おうね! と幾度も幾度も誓い合ったにちがいない。ひろい世界に、思いがけぬ同志を得たという事は、君にとっても僕にとっても、なんと素晴らしい事だったろう。けれども、誰も僕に言葉をかけてはくれなかったのだ。僕はヨボヨボになって麹町の家へ帰ったのです。

同上

われ、大学に幻滅せり。始業式の日から、もう、いやになっていたのだ。中学校と少しもかわらぬ。期待していた宗教的な清潔な雰囲気などは、どこにも無い。クラスには七十人くらいの学生がいて、みんな二十歳前後の青年らしいのに、智能の点に於ては、ヨダレクリ坊主のようである。ただもう、きゃあきゃあ騒いでいる。白痴ではないかと疑われるくらいである。

同上

わけがわからない。不潔だ! 卑劣だ。ばかな騒ぎを、離れて見ているうちに、激しい憤怒が湧いて来た。赦せないような気がして来た。もう、こんな奴等とは、口もきくまいと思った。仲間はずれでも、よろしい。こんな仲間にはいって、無理にくだらなくなる必要はない。ああ、ロマンチックな学生諸君! 青春は、たのしいものらしいねえ。

同上

 本気の人間を茶化してはならない。揚げ足を取っていい気になるな。常識のシェルターに守られお仕着せの服を自慢しているような奴に限って肌を晒して戦う人間を嘲笑うのだ。偽物の歯を光らせながら、脂ぎった鼻を鳴らし、誇りを剃り落とした体で、底上げされた靴に乗り、だらしなく歪んだ背骨を支えに、黴臭い息を吐きながら笑うのだ。そんな連中は、まるで情熱を知らない人形だ。真水の涙を流す硝子細工だ。ただの世界の飾り人形だ。

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