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【随想】芥川龍之介『犬と笛』

 しかし二人の侍は、こんな卑しい木樵などに、まんまと鼻をあかされたのですから、羨しいのと、妬ましいのとで、腹が立って仕方がありません。そこで上辺はさも嬉しそうに、いろいろ髪長彦の手柄を褒め立てながら、とうとう三匹の犬の由来や、腰にさした笛の不思議などをすっかり聞き出してしまいました。そうして髪長彦の油断をしている中に、先大事な笛をそっと腰からぬいてしまうと、二人はいきなり黒犬の背中へとび乗って、二人のお姫様と二匹の犬とを、しっかり両脇に抱えながら、「飛べ。飛べ。飛鳥の大臣のいらっしゃる、都の方へ飛んで行け」と、声を揃えて喚きました。
 髪長彦は驚いて、すぐに二人へとびかかりましたが、もうその時には大風が吹き起って、侍たちを乗せた黒犬は、きりりと尾を捲いたまま、遙な青空の上の方へ舞い上って行ってしまいました。

芥川龍之介『犬と笛』(短編集『蜘蛛の糸・杜子春』)新潮社,1968

 他人が獲得した成果を掠め取って生きる。自然界にはそのような生存戦略の例が幾らでもある。だが大抵は取られる側も、その窃取行為による被害が、自身の生活の維持にとって大きな打撃とならない限り、泥棒に対して警戒し続ける労力よりも、獲物を探す本来の生命活動に注力する事を選択するようである。小さなリスクの為に、大きなリターンを取り逃すのは合理的ではないという事だろう。これは有限の時間と資源を奪い合う生物の宿命からすると、至極当然の選択である。だが人間社会には公平であるべきという前提がある為、このような生存戦略を許す訳にはいかない。他人の成果を盗む者は処罰されなければならない、筈である。しかし実際には、資本主義はこれを強者の正義として認めてしまった。組織に属し組織の命令に従うこととされている、所謂弱者が働いて産みだした成果物を、経営者、つまり組織の所有者が一定量掠め取る事が、当然の権利として認められているのだ。それが経営というスキルを持つ者の特権であり、経営を覚えた者が二度と労働者に戻ろうとしないのは、この特権の力が余りに巨大だからである。ある種のスキルの持ち主が、他の人間よりはるかに優遇される、これは確かに不公平である。なぜなら、ならばと全員が経営者になれば、誰も労働する者がいなくなり、結局社会は成立しないからであり、本来どのようなスキルも、それが社会を維持運営するのに必須のものである以上、平等に評価されるべきなのだ。これは確かに一理あるだろう。しかし実際にこの考えを推し進めたマルクスの理想社会は、現実では上手く機能しなかった。尤も、暴力による革命を手段として選んでいる以上、上手くいく筈もないのだが。生命に対する危機以上に人間を怒らせるものはないのだから、当然である。とにかく、共産主義は失敗した。そうかと言って、資本主義が唯一の方策とも思えないのは、今も社会にルサンチマンが蔓延していることからも明らかであろう。改良型資本主義、例えば倫理的資本主義などという考えも提案されているが、この現代の閉塞感、どん詰まり感を打破するには、もっと根本的なパラダイムシフトが必要であると、そんな予感がする。

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