見出し画像

【随想】太宰治『たずねびと』

 そのひとに、その女のひとに、私は逢いたいのです。としの頃は、はたち前後。その時の服装は、白い半袖のシャツに、久留米絣のモンペをつけていました。
 逢って、私は言いたいのです。一種のにくしみを含めて言いたいのです。
「お嬢さん。あの時は、たすかりました。あの時の乞食は、私です。」と。

太宰治『たずねびと』(短編集『グッド・バイ』)新潮社,1972

 ある行動が示す意味は与える側と受け取る側で必ずしも一致しない。一定の共通認識はあれど、それとて確かなものではなくあまり信頼出来るものではない。その意図は、互いの関係性、個人的状況、経験的見解、周囲の環境など、様々な要因でいかようにも捉えられる。それでもコミュケーションが成立するのは、ひとえに諦観の賜物である。人は誰しも多少は悟っている。世の中と折り合いつけている。そうしなければ心なんて一年と持たずに擦り切れてしまう。
 親切は「親しく寄り添う(刃物のようにピタリと接する)」という意味だが、素直に読めば「親を切る」。親は子に対し、無償の愛、盲目的な愛で接するけれども、親切とは自発的に何らかの意図を持って行うものであるから親のそれとは違うものである、という他意が含まれている、と解せないこともない。
 大切は「大きく迫る(切る)重要なもの」という意味だが、素直に読めば「大きな切なさ」。大切という気持ちには悲しみが詰まっている。大切なものほど失ったときの悲しみは大きい。

この記事が参加している募集

読書感想文

素晴らしいことです素晴らしいことです