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【随想】芥川龍之介『アグニの神』

「お前さんは何を言うんだえ? 私はそんな御嬢さんなんぞは、顔を見たこともありゃしないよ」
「嘘をつけ。今その窓から見ていたのは、確に御嬢さんの妙子さんだ」
 遠藤は片手にピストルを握ったまま、片手に次の間の戸口を指さしました。
「それでもまだ剛情を張るんなら、あすこにいる支那人をつれて来い」
「あれは私の貰い子だよ」
 婆さんはやはり嘲るように、にやにや独り笑っているのです。

芥川龍之介『アグニの神』(短編集『蜘蛛の糸・杜子春』)新潮社,1968

「遠藤サン。コノ家ノオ婆サンハ、恐シイ魔法使デス。時々真夜中ニ私ノ体ヘ、『アグニ』トイウ印度ノ神ヲ乗リ移ラセマス。私ハソノ神ガ乗リ移ッテイル間中、死ンダヨウニナッテイルノデス。デスカラドンナ事ガ起ルカ知リマセンガ、何デモオ婆サンノ話デハ、『アグニ』ノ神ガ私ノ口ヲ借リテ、イロイロ予言ヲスルノダソウデス。今夜モ十二時ニハオ婆サンガ又『アグニ』ノ神ヲ乗リ移ラセマス。イツモダト私ハ知ラズ知ラズ、気ガ遠クナッテシマウノデスガ、今夜ハソウナラナイ内ニ、ワザト魔法ニカカッタ真似ヲシマス。ソウシテ私ヲオ父様ノ所ヘ返サナイト『アグニ』ノ神ガオ婆サンノ命ヲトルト言ッテヤリマス。オ婆サンハ何ヨリモ『アグニ』ノ神ガ怖イノデスカラ、ソレヲ聞ケバキット私ヲ返スダロウト思イマス。ドウカ明日ノ朝モウ一度、オ婆サンノ所ヘ来テ下サイ。コノ計略ノ外ニハオ婆サンノ手カラ、逃ゲ出スミチハアリマセン。サヨウナラ」

同上

「人を莫迦にするのも、好い加減におし。お前は私を何だと思っているのだえ。私はまだお前に欺される程、耄碌はしていない心算だよ。早速お前を父親へ返せ――警察の御役人じゃあるまいし、アグニの神がそんなことを御言いつけになってたまるものか」
 婆さんはどこからとり出したか、眼をつぶった妙子の顔の先へ、一挺のナイフを突きつけました。
「さあ、正直に白状おし。お前は勿体なくもアグニの神の、声色を使っているのだろう」
 さっきから容子を窺っていても、妙子が実際睡っていることは、勿論遠藤にはわかりません。ですから遠藤はこれを見ると、されは計略が露顕したかと思わず胸を躍らせました。が、妙子は相変らず目蓋一つ動かさず、嘲笑うように答えるのです。
「お前も死に時が近づいたな。おれの声がお前には人間の声に聞えるのか。おれの声は低くとも、天上に燃える炎の声だ。それがお前にはわからないのか。わからなければ、勝手にするが好い。おれは唯お前に尋ねるのだ。すぐにこの女の子を送り返すか、それともおれの言いつけに背くか――」

同上

 遠藤はもう一度、部屋の中を見廻しました。机の上にはさっきの通り、魔法の書物が開いてある、――その下へ仰向きに倒れているのは、あの印度人の婆さんです。婆さんは意外にも自分の胸へ、自分のナイフを突き立てたまま、血だまりの中に死んでいました。
「お婆さんはどうして?」
「死んでいます」
 妙子は遠藤を見上げながら、美しい眉をひそめました。
「私、ちっとも知らなかったわ。お婆さんは遠藤さんが――あなたが殺してしまったの?」
 遠藤は婆さんの屍骸から、妙子の顔へ眼をやりました。今夜の計略が失敗したことが、――しかしその為に婆さんも死ねば、妙子も無事に取り返せたことが、――運命の力の不思議なことが、やっと遠藤にもわかったのは、この瞬間だったのです。
「私が殺したのじゃありません。あの婆さんを殺したのは今夜ここへ来たアグニの神です」
 遠藤は妙子を抱えたまま、おごそかにこう囁きました。

同上

 神懸かり。意識のリミッターが外れた人間は、常識では考えられない力を発揮する。パニック状態の人間はとてつもない筋力を示すことがあるが、精神もまたトランス状態になると、所謂霊感を発揮することがある。通常、人間には、そんな事は有り得ないと無意識に掛けているブレーキがある。例えば質量保存の法則、無から有が生まれることは有り得ない。だがそうしたブレーキが取り払われ、この世界、現実を、常識とは全く違う解釈によって捉える事が可能になれば、世界の姿は今見えているものとは異なるものとなる。
 生命とは遺伝子のプログラムに則った現象ではなく、生まれた時から存在する意志によって生きている。花が咲くのは条件が満たされた故の必然ではなく、その意志が咲きたいと望んだから咲くのだ。世界を構成するのは物質ではなく、存在を望む意志である。誰かが願うから、それはそこにあり、誰かに願われたから、それはそこにある。
 科学で説明できない現象とは、科学という論理的な物差しでは測り得ない次元の現象なのだから、科学で説明しようという行為そのものが無意味である。それを理解するには、科学から離れなければならない。地球が消滅しても、太陽は何も変わらずそこにある。太陽を動かしたいのなら、地球に居てはいけないのだ。
 不可思議な現象を非科学的だと無視する現代人より、現に起きた超常現象を、神の力という現実として受け容れていた過去の人間の方が、はるかに柔軟な知性がある。

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