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【随想】芥川龍之介『トロッコ』

「おじさん、押してやろうか?」
 その中の一人、――縞のシャツを着ている男は、俯向きにトロッコを押したまま、思った通り快い返事をした。
「おお、押してくよう」
 良平は二人の間にはいると、力一杯押し始めた。
「われは中々力があるな」
 他の一人、――耳に巻煙草を挟んだ男も、こう良平を褒めてくれた。
 その内に線路の勾配は、だんだん楽になり始めた。「もう押さなくとも好い」――良平は今にもそう云われるかと内心気がかりでえならなかった。が、若い二人の土工は、前よりも腰を起したぎり、黙黙と車を押し続けていた。良平はとうとうこらえ切れずに、怯ず怯ずこんな事を尋ねて見た。
「何時までも押していて好い?」
「好いとも」
 二人は同時に返事をした。良平は「優しい人たちだ」と思った。

芥川龍之介『トロッコ』(短編集『蜘蛛の糸・杜子春』)新潮社,1968

「われはもう帰んな。おれたちは今日は向う泊りだから」
「あんまり帰りが遅くなるとわれの家でも心配するずら」
 良平は一瞬呆気にとられた。もうかれこれ暗くなる事、去年の暮母と岩村まで来たが、今日の途はその三四倍ある事、それを今からたった一人、歩いて帰らなければならない事、――そう云う事が一時にわかったのである。良平は殆ど泣きそうになった。が、泣いても仕方がないと思った。泣いている場合ではないとも思った。彼は若い二人の土工に、取って附けたような御時宜をすると、どんどん線路伝いに走り出した。

同上

 彼の家の門口へ駈けこんだ時、良平はとうとう大声に、わっと泣き出さずにはいられなかった。その泣き声は彼の周囲へ、一時に父や母を集まらせた。殊に母は何とか云いながら、良平の体を抱えるようにした。が、良平は手足をもがきながら、啜り上げ啜り上げ泣き続けた。その声が余り激しかったせいか、近所の女衆も三四人、薄暗い門口へ集って来た。父母は勿論その人たちは、口口に彼の泣く訣を尋ねた。しかし彼は何と云われても泣き立てるより外に仕方がなかった。あの遠い路を駈け通して来た、今までの心細さをふり返ると、いくら大声に泣き続けても、足りない気もちに迫られながら、…………

同上

 帰る場所がある。安全な場所がある。安らげる場所がある。何か挑戦を可能にするのは、この、場所である。それは物理的なシェルターかも知れないし、信頼出来る仲間かも知れない。揺るぎない信念や、或いは十分な財産かも知れない。人それぞれ形は違えど、安らぎの巣である。人は巣を失うと、途端に不安になり、自信が無くなり、悪人に騙され、簡単に悪事を働き、誇り無き恥知らずとなってしまう。そして涙が出てくる。自然に出てくる。無意識で感じている世界というものに対する恐怖が、涙となって溢れてくるのだ。だから、帰る場所も無く唯一人歩むものを、誰の庇護も受けず唯一人歩むものを、世界への恐怖に打ち勝ち唯一人歩むものを、我々は、尊敬しなければならない。敗者と呼ばれ、見下され、蔑まれているものの中にも、きっとそうした人間はいるのだ。

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