【随想】太宰治『男女同権』
男女問題は人類史における永遠の問題である。解決はすぐ別の問題に変身する。人類が存在する限り常に一定割合の人間がその問題に挑み続ける。それらの人々は、元よりこの問題を解決する気などないし根本的に解決などしないのも分かっている。ただ彼等にとってその問題は最高にエキサイティングだからやめられない。
有性生殖生物はそもそもが不完全な個体として完成する。不完全な部分は異性によって埋まる。異性が存在するからこそ自身の性が成立する。互いに補填し合って一人前。同性は競争相手として攻撃対象に成り得るが、異性は相互扶助対象であり助け合うべきパートナーである。異性を攻撃対象と見るのは完全に間違っているし、そんなことはまるで無意味である。男性或いは女性としての自分自身が不安で自信も無い、しかし同性はライバルであるが故に弱点を晒せない。だから異性が大人しいことにつけ込み感情的な行動に身を任せる事でストレスを発散し「自分」という現実から逃避する人間が近頃はよく目につく。
異性はそもそも生存競争の種類が違う、競争ルールが違う。身体構造が違い、機能が違い、精神構造さえ遺伝的な違いがある。それを無理矢理同じ土俵に乗せるのがそもそもおかしい。同性同士のグループがそれぞれルールを守って競い合っている所に、異性者がルールを無視して乗り込み、何でもありでむちゃくちゃやって勝利した気になって独りはしゃいでいる姿は極めて滑稽である。そもそも相手にされていないのだ。そのような輩など無視するべきのだが、物理的に存在しているものだから対応せざるを得ない。それが狂気の者には分からない。哀れなものだ。
異性を敵視する人間とはつまり同性間の競争に敗れた者なのだ。同性間の争いにおいて勝ち目が無いものだから、ルールの違う異性の世界で腫れ物扱いを逆手に取って暴れ回っているだけなのだ。同性に攻撃しないのは、同性と戦っても勝てないしコテンパンにされることを分かっているからである。逆に同性を殊更に擁護し味方であることを強調するのも、ただただ同性を怖れているからなのである。弱者の悲哀である。それが精一杯の防御行動なのだ。
男女問題は最も身近で簡単そうに見えるし、異性に対する好奇心が溢れて仕方ない人、議論が苦手な人にとっては、頭を使わずにお手軽に正義感に浸れる便利なテーマなのだろう。勝手に大いに盛り上がるといい。自分の醜さ弱さを棚に上げて揚げ足取って好き勝手ほざいているといい。但し、誠実で正直で優しくて素朴で他人を大切にし異性を尊重できる、そうした愛すべき愛されるべき人間たちを巻き込むのだけは厳に謹んでもらいたい。
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