【随想】芥川龍之介『庭』
記憶は生物の専売特許ではない。物言わぬ、動かぬ者とて「記憶」する。例えばそれは傷をその身に刻む形で、又は見た目には何の変化も現さず唯の情報の交換という形でも行われる。壊れたものには「壊れた」という記憶が、作られたものには「作られた」という記憶が、見られただけのものにさえ「見られた」という記憶が、確かに為されているのである。言葉は現象を記録する。名も無き道端の石ころも、誰か或いは何かに認識された瞬間に石ころという現象は成立し、そこに言葉による定義が為され、宇宙の一部として記録される。そして認識したものとされたものの中に、記憶という証拠を残すのである。あらゆるものは常に相互に連関し合っており、相互に記憶し合っている。全ては全ての前提であり、存在する為の必要条件である。
しかし矛盾するようだが、言葉によって世界は恰も整然と分類されているかの様に見せかけて、本当は何一つ区別など無く、単なる言葉遊びをしているに過ぎないのも事実である。故に記憶も又、我の記憶が彼の記憶であり、共有ですらなくそもそも唯の一である。だが彼我の別を認めなければ、読むものと読まれるもの、或いは書くものと書かれるものが区別されない為、当然この文章も成立しない訳だから、厳密な思考過程を敢えて省くことも、方便として許されなければならないのである。曖昧さも又、前提として必要である。記憶がいつも曖昧なのは、そうでなければならないからである。
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