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【随想】宮沢賢治『ビジテリアン大祭』

 以上は、まあ、ビジテリアンをその精神から大きく二つにわけたのでありますが、又一方これをその実行の方法から分類しますと、三つになります。第一に、動物質のものは全く喰べてはいけないと、則ち獣や魚やすべて肉類はもちろん、ミルクや、またそれからこしらえたチーズやバター、お菓子の中でも鶏卵の入ったカステーラなど、一切いけないという考の人たち、日本ならばまあ、一寸鰹だしの入ったものもいけないという考のであります。この方法は同情派にも予防派にもありますけれども大部分は予防派の人たちがやります。第二のは、チーズやバターやミルク、それから卵などならば、まあものの命をとるというわけではないから、さし支えない、また大してからだに毒になるまいというので、割合穏健な考であります。第三は私たちもこの中でありますが、いくら物の命をとらない、自分ばかりさっぱりしていると云ったところで、実際にほかの動物が辛くては、何にもならない、結局はほかの動物がかあいそうだからたべないのだ、小さな小さなことまで、一一吟味して大へんな手数をしたり、ほかの人にまで迷惑をかけたり、そんなにまでしなくてもいい、もしたくさんのいのちの為に、どうしても一つのいのちが入用なときは、仕方ないから泣きながらでも食べていい、そのかわりもしその一人が自分になった場合でも敢て避けないとこう云うのです。けれどもそんな非常な場合は、実に実に少いから、ふだんはもちろん、なるべく植物をとり、動物を殺さないようにしなければならない、くれぐれも自分一人気持ちをさっぱりすることにばかりかかわって、大切の精神を忘れてはいけないと斯う云うのであります。

宮沢賢治『ビジテリアン大祭』(童話集『新編 銀河鉄道の夜』)新潮社,1989

「このプログラムの論難というのは向うのあの連中がやるのですね。」
「きっとそうでしょうね。」
「どうです、異派席の連中は、私たちの仲間にくらべては少し風采でも何でも見劣りするようですね。」
 私も笑いました。
「どうもそうのようですよ。」
 陳氏が又云いました。
「けれども又異教席のやつらと、異派席の連中とくらべて見たんじゃ又ずっと違ってますね。異教席のやつらときたら、実際どうも醜悪ですね。」
「全くです。」私はとうとう吹き出しました。実際異教席の連中ときたらどれもみんな醜悪だったのです。

同上

「讃うべきかな神よ。神はまことにして変り給わない、神はすべてを創り給うた。美しき自然よ。風は不断のオルガンを弾じ雲はトマトの如く又馬鈴薯の如くである。路のかたわらなる草花は或は赤く或は白い。金剛石は硬く滑石は軟らかである。牧場は緑に海は青い。その牧場にはうるわしき牛佇立し羊群駆ける。その海には青く装える鰯も泳ぎ大なる鯨も浮ぶ。いみじくも造られたる天地よ、自然よ。どうです諸君ご異議がありますか。」
 式場はしいんとして返事がありませんでした。博士は実に得意になってかかとで一つのびあがり手で円くぐるっと環を描きました。
「その中の出来事はみな神の摂理である。総ては総てはみこころである。誠に畏き極みである。主の恵み讃うべぐ主のみこころは測るべからざる哉。われらこの美しき世界の中にパンを食み羊毛と麻と木綿とを着、セルリイと蕪菁とを食み又豚と鮭とをたべる。すべてこれ摂理である。み恵みである。善である。どうです諸君。ご異議がありますか。」
 博士は今度は少し心配そうに顔色を悪くしてそっと式場を見まわしました。それから、まるで脱兎のような勢で結論にはいりました。
「私はシカゴ畜産組合の顧問でも何でもない。ただ神の正義を伝えんが為に茲に来た。諸君、諸君は神を信ずる。何が故に神に従わないか。何故に神の恩恵を拒むのであるか。速にこれを悔悟して従順なる神の僕となれ。」
 博士は最後に大咆哮を一つやって電光のように自分の席に戻りそこから横目でじっと式場を見まわしました。拍手が起りましたが同時に大笑いも起りました。というのは私たちは式場の神聖を乱すまいと思ってできるだけこらえていたのでしたがあんまり博士の議論が面白いのでしまいにはとうとうこられ切れなくなったのでした。

同上

この世界は苦である、この世界に行わるるものにして一として苦ならざるものない、ここはこれみな矛盾である。みな罪悪である。吾等の心象中微塵ばかりも善の痕跡を発見することができない。この世界に行わるる吾等の善なるものは畢竟根のない木である。吾等の感ずる正義なるものは結局自分に気持がいいというだけの事である。これは斯うでなければいけないとかこれは斯うなればよろしいとかみんなそんなものは何にもならない。動物がかあいそうだから喰べないなんということは吾等には云えたことではない。実にそれどころではないのである。ただ遙かにかの西方の覚者救済者阿弥陀仏に帰してこの矛盾の世界を離るべきである。それ然る後に於て菜食主義もよろしいのである。

同上

「諸君、私は誤っていた。私は迷っていたのです。私は今日からビジテリアンになります。いや私は前からビジテリアンだったような気がします。どうもさっきまちがえて異教徒席に座りそのためにあんな反対演説をしたらしいのです。諸君許したまえ。且つ私考えるに本日異教徒席に座った方はみんな私のように席をちがえたのだろうと思う。どうもそうらしい。その証拠には今はみんな信者席に座っている。どうです、前異教徒諸氏そうでしょう。」
 私の愕いたことは神学博士をはじめみんな一ぺんに立ちあがって
「そうです。」と答えたことです。
「そうでしょう。して見ると私はいよいよ本心に立ち帰らなければいけない。私は或はご承知でしょう、ニュウヨウク座のヒルガードです。このわれわれのやった大しばいについて不愉快なお方はどうか祭司次長にその攻撃の矢を向けて下さい。私はごく気の弱い一信者ですから。」
 ヒルガードは一礼して脱兎のように壇を下りただ一つあいた席にぴたっと座ってしまいました。
「やられたな、すっかりやられた。」陳氏は笑いころげ哄笑歓呼拍手は祭場も破れるばかりでした。けれども私はあんまりこのあっけなさにぼんやりしてしまいました。

同上

 より深く傷付けば、治癒したときの喜びはより大きい。大きな失敗は成功の輝きを何倍も強くする。こうして人は嵌まっていく。飛翔には助走が必要だと、創造は破壊の後にしか行い得ないと、夢は現実に打ちのめされる為にあるのだと、そういう風に体で覚えて、人は光がつくる闇を探すようになっていく。闇に入っては、視力を失い、耳を塞ぎ、乾き切って何も言えなくなるまで口を開け続けるのだ。そうして救いを待つ。ひたすらに待つ。待つという意識さえも失うまで待つ。永遠に来ない救世主を待つ。脳が固まり完全な絶縁体と化したとき、それは完成する。謂わば一本のねじ、謂わば四肢の生えたタンパク質、謂わばアノニマス。

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