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【随想】太宰治『もの思う葦』②

 おばけは、日本の古典文学の粋である。狐の嫁入り。狸の腹鼓。この種の伝統だけは、いまもなお、生彩を放って居る。ちっとも古くない。女の幽霊は、日本文学のサンボルである。植物的である。
(『古典龍頭蛇尾』)

太宰治『もの思う葦』新潮社,1980

 路を歩けば、曰く、「惚れざるはなし。」みんなのやさしさ、みんなの苦しさ、みんなのわびしさ、ことごとく感取できて、私の辞書には、「他人」の文字がない有様。
(『思案の敗北』)

同上

 自分の世界観をはっきり持っていなくても、それでも生きて居れる人は、論外である。そうでなくて、自分の哲学的思想体系を、ちゃんと腹に収めてからでなければ、どんな行動も起し得ない種類の人間も、たくさんあることと思う。
(『多頭蛇哲学』)

同上

 私は、思いちがいしていた。このレエスは百米競争では、なかったのだ。千米、五千米、いやいや、もっとながい大マラソンであった。
(『答案落第』)

同上

 甘さを軽蔑する事くらい容易な業は無い。そうして人は、案外、甘さの中に生きている。他人の甘さを嘲笑しながら、自分の甘さを美徳のように考えたがる。
(『かすかな声』)

同上

 日本には「誠」という倫理はあっても、「純真」なんて概念は無かった。人が「純真」と銘打っているものの姿を見ると、たいてい演技だ。演技でなければ、阿呆である。家の娘は四歳であるが、ことしの八月に生れた赤子の頭をコツンと殴ったりしている。こんな「純真」のどこが尊いのか。感覚だけの人間は、悪鬼に似ている。どうしても倫理の訓練は必要である。
(『純真』)

同上

 私はいまは保守党に加盟しようと思っています。こんな事を思いつくのは私の宿命です。私はいささかでも便乗みたいな事は、てれくさくて、とても、ダメなのです。
(『返事』)

同上

「孤高」と自らを号しているものには注意をしなければならぬ。第一、それは、キザである。ほとんど例外なく、「見破られかけたタルチュフ」である。どだい、この世の中に、「孤高」ということは、無いのである。孤独ということは、あり得るかもしれない。いや、むしろ、「孤低」の人こそ多いように思われる。
(『徒党について』)

同上

 博愛、隣人愛を説きながら平気で差別をする。差別を受けたことを理由にすればどんな横暴も許されると考える。自分は神の姿に近いからそれだけ偉いのだと信じ、偉いものは強者であり、強者は弱者を支配し、偉いものが世界の秩序を決め、偉いものの価値観は絶対であり、偉いものには従うべきだという思想に何らの疑念も持たない。そんな教えは失敗だ。或いは本質を理解する能力が無いために師の教えを曲解した弟子達の不手際だ。傲岸不遜、厚顔無恥、いい加減にし給え。我々は君達のその尊大で自信満々の態度によってどうやら見誤っていたらしい。過大評価していた。君達は全然大したことなかった。ただ偉そうにしているだけだった。浅墓。空っぽだ。我々同様に有象無象の取るに足らない虫けらである。どうということもない。つまらん。くだらん。人間社会は無能な遺伝子の数ばかり増やし優秀な遺伝子を淘汰していく。人類は世代を重ねるほど愚かになっていく。

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素晴らしいことです素晴らしいことです