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【随想】太宰治『花燭』

 すこしずつ変っていた。謂わば赤黒い散文的な俗物に、少しずつ移行していたのである。それは、人間の意志に依る変化ではなかった。一朝めざめて、或る偶然の事件を目撃したことに依って起った変化でもなかった。自然の陽が、五年十年の風が、雨が、少しずつ少しずつかれの姿を太らせた。一茎の植物に似ていた。春は花咲き、秋は紅葉する自然の現象と全く似ていた。自然には、かなわない。ときどきかれは、そう呟いて、醜く苦笑した。

太宰治『花燭』(短編集『新樹の言葉』)新潮社,1982

「失礼ですが、」青年は、かえろうとする男爵のまえに立ちふさがり、低い声で言った。「養うの、ひきとるのと、そんな問題は、古いと思います。だい一あなたには、人間ひとり養う余裕ございますか。」男爵は、どぎもを抜かれた。思わず青年の顔を見直した。「自身の行為の覚悟が、いま一ばん急な問題ではないのでしょうか。ひとのことより、まずご自分の救済をして下さい。そうして僕たちに見せて下さい。目立たないことであっても、僕たちは尊敬します。どんなにささやかでも、個人の努力を、ちからを、信じます。むかし、ばらばらに取り壊し、渾沌の淵に沈めた自意識を、単純に素朴に強く育て直すことが、僕たちの一ばん新しい理想になりました。いまごろ、まだ、自意識の過剰だの、ニヒルだのを高尚なことみたいに言っている人は、たしかに無智です。」
「やあ。」男爵は、歓声に似た叫びをあげた。「君は、君は、はっきりそう思うか。」
「僕だけでは、ございません。自己の中に、アルプスの嶮にまさる難所があって、それを征服するのに懸命です。僕たちは、それを為しとげた人を個人英雄という言葉で呼んで、ナポレオンよりも尊敬して居ります。」
 来た。待っていたものが来た。新しい、全く新しい次のジェネレーションが、少しずつ少しずつ見えて来た。男爵は、胸が一ぱいになり、しばらくは口もきけない有様であった。
「ありがとう。それは、いいことだ。いいことなんだ。僕は、君たちの出現を待っていたのです。好人物と言われて笑われ、ばかと言われて指弾され、廃人と言われて軽蔑されても、だまってこらえて待っていた。どんなに、どんなに、待っていたか。」

同上

 呆けているのかい。日がな一日空を見上げたり鳩を眺めたり蟻の行く先を目で追ったりして、ただぼんやりとしている。少なくとも周りからはそう見える。一体アンタは何を思っているんだい。その眼は何を反射しているんだい。
 いつから、どうして、そうしているんだい。好奇心や恐怖心は何処に置いてきたんだい。
 何を見ているのか、何を聞いているのか、何故、どうやって、そうなったのか。それは望んだことなのか。それは自然の成り行きなのか。風化したのか。削り出したのか。膨らんでいるのか。結合しているのか。何と化合したのか。
 アンタは死にゆくのか。それとも、誰よりも、生きているのか。

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素晴らしいことです素晴らしいことです