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【随想】芥川龍之介『お富の貞操』

「猫ですかい、姐さん、忘れ物と云うのは?」
「猫じゃ悪いのかい?――三毛、三毛、さあ、下りて御出で」
 新公は突然笑い出した。その声は雨音の鳴り渡る中に殆ど気味の悪い反響を起した。と、お富はもう一度、腹立たしさに頬を火照らせながら、いきなり新公に怒鳴りつけた。
「何が可笑しんだい? 家のお上さんは三毛を忘れて来たって、気違いの様になっているんじゃないか? 三毛が殺されたらどうしようって、泣き通しに泣いているんじゃないか? わたしもそれが可哀そうだから、雨の中をわざわざ帰って来たんじゃないか?――」
「ようござんすよ、もう笑いはしませんよ」
 新公はそれでも笑い笑い、お富の言葉を遮った。
「もう笑いはしませんがね。まあ、考えて御覧なさい。明日にも『いくさ』が始まろうと云うのに、高が猫の一匹や二匹――これはどう考えたって、可笑しいのに違いありませんや。お前さんの前だけれども、一体此処のお上さん位、わからずやのしみったれはありませんぜ。第一あの三毛公を探しに、……」
「お黙りよ! お上さんの讒訴なぞは聞きたくないよ!」
 お富は殆どじだんだを踏んだ。が、乞食は思いの外彼女の権幕には驚かなかった。のみならずしげしげ彼女の姿に無遠慮な視線を注いでいた。実際その時の彼女の姿は野蛮な美しさそのものだった。雨に濡れた着物や湯巻、――それらは何処を眺めてみても、ぴったり肌についているだけ、露わに肉体を語っていた。しかも一目に処女を感ずる、若若しい肉体を語っていた。

芥川龍之介『お富の貞操』(短編集『戯作三昧・一塊の土』)新潮社,1968

「姐さん。わたしは少しお前さんに、訊きたい事があるんですがね。――」
 新公はまだ間が悪そうに、お富の顔を見ないようにしていた。
「何をさ!」
「何をって事もないんですがね。――まあ肌身を任せると云えば、女の一生じゃ大変な事だ。それをお富さん、お前さんは、その猫の命と懸け替に、――こいつはどうもお前さんにしちゃ、乱暴すぎるじゃありませんか?」
 新公はちょいと口を噤んだ。がお富は頬笑んだぎり、懐の猫を劬っていた。
「そんなにその猫が可愛いんですかい?」
「そりゃ三毛も可愛いしね。――」
 お富は煮え切らない返事をした。
「それとも又お前さんは、近所でも評判の主人思いだ。三毛が殺されたとなった日にゃ、この家の上さんに申し訳がない。――と云う心配でもあったんですかい?」
「ああ、三毛も可愛いしね。お上さんも大事にゃ違いないんだよ。けれどもただわたしはね。――」
 お富は小首を傾けながら、遠い所でも見るような目をした。
「何と云えば好いんだろう? 唯あの時はああしないと、何だかすまない気がしたのさ」

同上

 お富はふと目を挙げた。その時丁度さしかかった、二頭立ちの馬車の中には、新公が悠悠と坐っていた。新公が、――尤も今の新公の体は、駝鳥の羽根の前立だの、厳めしい金モオルの飾緒だの、大小幾つかの勲章だの、いろいろの名誉の標章に埋まっているようなものだった。しかし半白の髯の間に、こちらを見ている赭ら顔は、往年の乞食に違いなかった。お富は思わず足を緩めた。が、不思議にも驚かなかった。新公は唯の乞食ではない。――そんな事はなぜかわかっていた。顔のせいか、言葉のせいか、それとも持っていた短銃のせいか、兎に角わかってはいたのだった。お富は眉も動かさずに、じっと新公の顔を眺めた。新公も故意か偶然か、彼女の顔を見守っていた。二十年以前の雨の日の記憶は、この瞬間お富の心に、切ない程はっきり浮んで来た。彼女はあの日無分別にも、一匹の猫を救う為に、新公に体を任そうとした。その動機は何だったか、――彼女はそれを知らなかった。新公は亦そう云う羽目にも、彼女が投げ出した体には、指さえ触れる事を肯じなかった。その動機は何だったか、――それも彼女は知らなかった。が、知らないのにも関らず、それらは皆お富には、当然すぎる程当然だった。彼女は馬車とすれ違いながら、何か心の伸びるような気がした。

同上

 何より大事だった筈のものが、ある時ふっと軽やかに心を離れていく。爽やかで生温い春風のように心地好く、執着から解き放たれるかつての欲望は、今や羽根さえ生えた愛らしい天使に見える。自分の中で何が変わったのかは分からない。ただ何となく、しかし確信的に清々しく、世界が透明度を増す瞬間があり、きっとそれがきっかけだったのだろう。例えば勝利、例えば愛、例えば賞賛、そんなものは虚空に霧散し、心に少しだけ綺麗な白が混ざる。大切なものに限って、失うと心が軽くなる。本当はずっと失くしたかったのかと思う程に。

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