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【随想】太宰治『正義と微笑』①

 僕は、きょうから日記をつける。このごろの自分の一日一日が、なんだか、とても重大なもののような気がして来たからである。人間は、十六歳と二十歳までの間にその人格がつくられると、ルソオだか誰だか言っていたそうだが、或いは、そんなものかも知れない。僕も、すでに十六歳である。十六になったら、僕という人間は、カタリと音をたてて変ってしまった。他の人には、気が附くまい。謂わば、形而上の変化なのだから。じっさい、十六になったら、山も、海も、花も、街の人も、青空も、まるっきり違って見えて来たのだ。悪の存在も、ちょっとわかった。この世には、困難な問題が、実に、おびただしく在るのだという事も、ぼんやり予感出来るようになったのだ。

太宰治『正義と微笑』(『パンドラの匣』)新潮社,1973

僕には、たぶんに、不幸を愛する傾向があるのだ。きっと、そうだ。なんでもない事のようだけれど、これは重大な発見である。この不幸にあこがれるという性癖は、将来、僕の人格の主要な一部分を形成するようになるのかも知れぬ。

同上

 学校の帰り、武蔵野館に寄って、「罪と罰」を見て来た。伴奏の音楽が、とてもよかった。眼をつぶって、音楽だけを聞いていたら、涙がにじみ出て来た。僕は、堕落したいと思った。

同上

 振り返ってみると少年時代の心は本当に弱くていい加減でグチャグチャで繊細だった。本質を見極める力が無くただ屁理屈ばかりこねていた。論破した気になっていたものはただ相手にされていなかっただけだと今なら分かる。世の中が気に入らなかった。ただ自然に対してだけは一度も憎悪を覚えたことがない。仮に人間社会と自然を分けてみたとして、この二者は何が違うのか。確固とした実体が存在しないのは人間社会も自然も同じだ。部分が集合して全体の概念を形成している、それらは繋がっているようで実際は連携していると断定出来る要素は無い。たまたま共通認識を持っているかのように見えるだけだ。そう、それなのかも知れない。自然の構成員たちは互いに連携しようとしていない、その素振りさえ見せないし、連携していると見せかけることもしない。それぞれがそれぞれの為すべきことを為しているだけだ。そこに生まれる摂理には無理が無い、嫌味が無い、水が低きに流れるように、風が大気を調和するように、ただそう成るべくして成っている。それが心地よくて安心出来るのかも知れない。自然の中では穏やかで居られる。
 乱れていた少年期の心も、長じるにつれそれぞれの感情がそれぞれ収まる場所を見つけて次第に落ち着いていく。それは教育と経験の賜物なのだろう。だが一見清らかな水の底には澱が溜まっている、少年の心を暗くしていた不純物は決して消えた訳ではない。ふとした拍子でまた舞い上がる。

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