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【随想】宮沢賢治『ひかりの素足』②

 けれどもそこはどこの国だったのでしょう。ひっそりとして返事もなく空さえもなんだかがらんとして見れば見るほど変なおそろしい気がするのでした。それににわかに足が灼くように傷んで来ました。
「楢夫は。」ふっと一郎は思い出しました。
「楢夫ぉ。」一郎はくらい黄色なそらに向って泣きながら叫びました。
 しいんとして何の返事もありませんでした。一郎はたまらなくなってもう足の痛いのも忘れてはしり出しました。すると俄かに風が起って一郎のからだについていた布はまっすぐにうしろの方へなびき、一郎はその自分の泣きながらはだしで走って行ってぼろぼろの布が風でうしろへなびいている景色を頭の中に考えて一そう恐ろしくかなしくてたまらなくなりました。

宮沢賢治『ひかりの素足』(童話集『注文の多い料理店』)新潮社,1990

すぐ眼の前は谷のようになった窪地でしたがその中を左から右の方へ何ともいえずいたましいなりをした子供らがぞろぞろ追われて行くのでした。わずかばかりの灰いろのきれをからだにつけた子もあれば小さなマントばかりはだかに着た子もありました。瘠せて青ざめて眼ばかり大きな子、髪の赭い小さな子、骨の立った小さな膝を曲げるようにして走って行く子、みんなからだを前にまげておどおど何かを恐れ横を見るひまもなくただふかくため息をついたり声を立てないで泣いたり、ぞろぞろ追われるように走って行くのでした。みんな一郎のように足が傷ついていたのです。そして本とうに恐ろしいことはその子供らの間を顔のまっ赤な大きな人のかたちのものが灰いろの棘のぎざぎざ生えた鎧を着て、髪などはまるで火が燃えているよう、ただれたような赤い眼をして太い鞭を振りながら歩いて行くのでした。その足が地面にあたるときは地面はガリガリ鳴りました。一郎はもう恐ろしさに声も出ませんでした。

同上

 一人の鬼がいきなり泣いてその人の前にひざまずきました。それから頭をけわしい瑪瑙の地面に垂れその光る足を一寸手でいただきました。
 その人は又微かに笑いました。すると大きな黄金いろの光が円い輪になってその人の頭のまわりにかかりました。その人は云いました。
「ここは地面が剣でできている。お前たちはそれで足やからだをやぶる。そうお前たちは思っている、けれどもこの地面はまるっきり平らなのだ。さあご覧。」
 その人は少しかがんでそのまっ白な手で地面に一つ輪をかきました。みんなは眼を擦ったのです。又耳を疑ったのです。今までの赤い瑪瑙の棘ででき暗い火の舌を吐いていたかなしい地面が今は平らな平らな波一つ立たないまっ青な湖水の面に変りその湖水はどこまでつづくのかはては孔雀石の色に何条もの美しい縞になり、その上には蜃気楼のようにそしてもっとはっきりと沢山の立派な木や建物がじっと浮んでいたのです。それらの建物はずうっと遠くにあったのですけれども見上げるばかりに高く青や白びかりの屋根を持ったり虹のようないろの幡が垂れたり、一つの建物から一つの建物へ空中に真珠のように光る欄干のついた橋廊がかかったり高い塔はたくさんの鈴や飾り網を掛けそのさきの棒はまっすぐに高くそらに立ちました。それらの建物はしんとして音なくそびえその影は実にはっきりと水面に落ちたのです。

同上

「僕たちのお母さんはどっちに居るだろう。」楢夫が俄かに思いだしたように一郎にたずねました。
 するとその大きな人がこっちを振り向いてやさしく楢夫の頭をなでながら云いました。
「今にお前の前のお母さんを見せてあげよう。お前はもうここで学校に入らなければならない。それからお前はしばらく兄さんと別れなければならない。兄さんはもう一度お母さんの所へ帰るんだから。」
 その人は一郎に云いました。
「お前はも一度あのもとの世界に帰るのだ。お前はすなおないい子供だ。よくあの棘の野原で弟を棄てなかった。あの時やぶれたお前の足はいまはもうはだしで悪い剣の林を行くことができるぞ。今の心持を決して離れるな。お前の国にはここから沢山の人たちが行っている。よく探してほんとうの道を習え。」その人は一郎の頭を撫でました。一郎はただ手を合せ眼を伏せて立っていたのです。

同上

ほんとうにほんとうだと気付いてしまったから
悲しみが湧水のようにとめどなく
いつまでも溢れてしかたない
後悔を覆い尽くす
怒濤のしぶきに眼が開けられない
どうしているのだろう
まだここには来ない筈だったのに
金と銀の羽衣の
ゆらめきに心が翻弄される
ああどうせなら全てが嘘であればよかった
存在も記憶も誰も
何も説明しない
この声はどこから聞こえるのか
そんなことさえ、もう分からない

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