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【神話エッセイ】 きもだめしとアヨアヨ

今年も夏が終わろうとしている。

夏の思い出といえば、先日、七夕のことを記事にした。

子供の頃、3自治会の子供たちが集まって七夕祭りをするという風習があった。そして夕ご飯を食べて、日が暮れると恒例の「きもだめし」がはじまる。3自治会に渡って暗道を提灯を下げて進んでいく。辻々には大人たちが扮装したおばけが待ち構えているという仕組みである。

そもそも「肝試し」はいつごろから始まったのであろうか。

平安時代末期に書かれたという『大鏡』には時の帝(花山天皇)が夏の午前3時に、藤原兼家の三人の息子たちに、が出ると言われていた屋敷に行かせ、藤原道長だけがやり遂げて、証拠として刀で柱を削いで持って帰ったという記述があり[2]、肝試しの発想が当時からあったことが窺える。

平安時代にはすでに「肝試し」の風習があったと述べられている。しかし、実をいうとこの出雲でも「肝試し」は行われていたのではないかという思う節がないでもない。



古代出雲風土記の地理誌である「出雲国風土記」に大原郡阿用(あよう)郷の説明が記載されている。

この阿用(あよう)郷は今の雲南市大東町阿用の地名が残る通り、今でも存在している場所である。この阿用の由来がまた恐ろしい。

古老の言い伝えでは、昔、ある人がここで山田を耕作して守っていた。その時、目一鬼(まひとつおに)が来て、耕作していた人の男(むすこ)を食った。その男の父母は藪の中に隠れ籠り身をひそめていたが、竹の葉がかすかに揺れ動いたため、それを見た鬼に食われている男は父母が自分を見捨てている事を悟り、「動動(あよ、あよ)」と嘆いた。だから阿欲(あよ)の郷と名付けられ、後に神亀3年(726年)に郷名を「阿用」と改めた。

出雲国風土記 大原郡阿用郷



一つ目鬼がやってきて人を食うというのも恐ろしいが、父母が息子を見捨ててしまうというのである。それをみた息子は「あよあよ(あぁ・・・・)」と嘆いたという。なんとも恐ろしい話ではないか。それを地名にするのもどうかと思うが、ひょっとしてこれは戒めとして名付けられたのかもしれない。

もし、一つ目鬼が来て、子供を食べるようなことがあっても隠れる真似だけはするなよ

そうかんがえると、一種の「肝試し」のようなものだといえるかもしれない。阿用の人々は今も永遠に肝試しを続けているに違いない。なんという胆力ではないか。





七夕祭りの最後を飾るきもだめしは小学生低学年の子供たちにとっては非常に怖いものだったに違いない。そういうときのために高学年のお兄ちゃんお姉ちゃんが盾になってすすまないといけない。

それなのに、最高学年である6年生だったぼくはお化け怖さに真っ先に走って逃げてしまい、近所の子供達から完全に威厳を失ってしまった。

ぼくは今も阿用の人々に顔向けできそうにない・・・・



今回も最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

阿用の里にいらしたときは一つ目鬼が現れてもお子さんを見捨てないでください。

あなたの肝が試されていますよ!

では、お待ちしています♪


ヘッダー画像はのり。さんの画像をお借りしました。ありがとうございました♪



ちなみにこの「アヨアヨ」については、小説「骨の消滅」でも取り上げ、大切な役割を果たしている。

出雲神話は楽しい話ばかりではなく、深く恐ろしい神話でもあることを、みなさんにも知ってもらいたかった。神話に触れるということは、そういうことも意味している。


こちらでは出雲神話から青銅器の使い方を考えています。 

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