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【神話エッセイ】 七夕とやぐら

夏の行事を語るために秋の話から始めるとしよう。

田園地帯の広がる出雲地域では昭和の中頃は秋になると田んぼ脇に「はでば」ができた。

「はでば」とは何ぞや?

このように杉の杭と竹を組み合わせて高さ4~5mの「はでば」ができる。そこに秋に刈り取った稲わらを差し込んでいって稲わらを乾燥させるのである。

今はその風景も上記のような山間部にのみ残っている。農協の大型乾燥施設が出来たために、「はでば」を作る必要がなくなったからである。

ぼくらの子供の頃は秋になって「はでば」ができるとすぐに上に登って遊んだものだ。おそらく昭和の出雲の子供たちはみな、同じ原風景を持っているに違いない(間違いだったらごめんチャイ)。

その「はでば」であるが、秋以外は使い道がない。よってそれを収納する場所が必要となる。それが「はで木小屋」だった。今ではほとんど見かけなくなったが、たまに「はで木小屋」を見かけると懐かしい気持ちになる。


さて、ようやく夏の話を始めよう。

夏になると子供たちが集まって恒例の七夕祭りがあった。そのために「はで木」が活躍することになる。

数自治会が集まって、その年の持ち回りを決め、当屋は「はで木」を使ってやぐらを組む。それは二階建てのちょっとしたもので、一階は女子、二階は男子の部屋となる(今だったら男女差別になるのかな)。

そこで1週間、学校が終わるとみなで集まって七夕当日(それは7月7日ではなく、日曜日が充てられた)に向けて、太鼓の練習をしたりする。とはいうものの、基本的に子供のことだから、練習そっちのけで遊びまわる。当屋はおやつやジュースを出してくれる。おそらく自治会同士で負担し合っていたのだろう。

七夕当日(日曜日)は、太鼓を軽トラックに乗せ、七夕の歌を歌いながら自治会周辺を練り歩く。夜にはきもだめしなんかもあったりして、ほんとうに楽しかったな。

今では自治会の子供も減って、七夕に皆で集まることもなくなった。もちろん、「はで木」もなくなったので、やぐらを組むような大規模な施設も見かけなくなった。

ぼくの子供たちはそれでも自治会の親たちが集まって、夏に一回子供会を開いたりしていた。ずいぶん、規模も小さくなったけど、こどもたちの思い出になってくれていたらなと思う。

しかし、あの七夕のやぐらはいったい誰が作っていたのだろう。今考えると、とても1家でつくれるものではない。おそらく自治会のみなさんが協力してつくっていたのではないだろうか。そういうのにも参加してみたかったな。



古代出雲の最大のやぐらといえば「田和山遺跡」にとどめを刺す。


1997年から2000年にかけて、松江市立病院の建設に伴って発掘調査された結果、丘陵尾根に掘られた弥生時代前期末~中期後半の三重の環濠が検出された。

弥生時代の環濠集落は、通常、環濠内部に住居跡などが配置されるが、田和山遺跡の狭小な環濠内部は建物跡が2棟検出されたのみで、それ以外の建物跡は環濠の周辺から検出された。そのため、なぜこれだけ膨大な労働力を投下して環濠を掘削したのか、環濠内部には何があったのかが謎とされ、遺跡の性格・位置付けが問題とされた。

環濠内からは、つぶて石や石鏃が出土しており、弥生時代の戦争を物語る山城ではないかという説、祭祀の拠点であったという説、環濠内部に銅鐸などの青銅祭器が保管してあったのではといった想像も提唱された。そのほか、弥生時代の遺跡では極めて珍しくの出土も認められている。




もちろん、田和山遺跡でやぐらを組んで七夕祭りをしていたなんてことはあるまい。しかし、この遺跡は頂上部に柱跡しかないためにいろいろな想像ができ、とても面白い。こういう謎は謎として末永く残ってほしいものだ。

ちなみにこの田和山遺跡、頂上まで登ることができる。頂上から観た宍道湖の夕日は絶景である。ぜひ一度ご覧あれ。ただ、隣に松江市立病院が立っているため、病院内からは丸見えでちょっとだけ恥ずかしい(そこは我慢だ!)。



今回も最後まで読んでくださり、ありがとうございました。  

よかったら、田和山遺跡にもいらしてください。

ここから眺める宍道湖の夕日は絶景ですよ

では、お待ちしています ♪


ヘッダー画像はmocmocさんの画像をお借りしました。ありがとうございました♪





こちらでは出雲神話から青銅器の使い方を考えています。 

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