親子の不和について
noteが毎日のように記事を書くことを推奨してくれるのに、ぼくは原稿を落とすことが多い。特に一番多いのは日曜日だ。なぜなのかははっきりしている。「鎌倉殿の13人」のせいだ(せいっていうな)。
何日か前にぼくのnoteの書き方を偉そう(すいません)に書いたけれど、ぼくのnoteの書き方は夕方の1時間が勝負だ。はっきりいえば、7時から8時の間で大体書いている。
本当はもっと時間をかけたいのだけど、一日の中ではそこしか空いていない。その1時間でささっと書くのだけど、途中で余計な用事が入ることがある。すると書く時の熱意というか、ほてりのようなものが抜け落ちてしまいう。もう後から取り戻そうと思っても、そのときのほてりはどこかへいってしまっている。
日曜日は午後から隣県に用事があるので、急いで帰っても夜8時前になってしまう。「鎌倉殿の13人」は8時からなので、もう時間がない。じゃあ、9時から書けばいいではないかと思うかも知れない。しかし、ぼくは「鎌倉殿の13人」をビールを少しずつ飲みながら、鑑賞することを唯一の楽しみにしている。9時を過ぎると、別のほてりで原稿を書くこともできず、結局その日は飛ばすことになる。
それは録画すればいいだけのことではないかと思う方もいらっしゃるかもしれない。実を言うと、ぼくはVHSからDVDに変わったときに、録画機能のついているレコーダーを購入するのをやめた。
VHS全盛の時代、ぼくはTVのいろいろな番組を録画しては、あとで見ていた。そうこうするうちに、録画したVHSテープはどんどんたまってしまい、見ることのないテープもずいぶん増えた。結局のところ、録画したことに安心してしまい、あとで見る前に興味をすっかりなくしているのだ。
これは録画の弊害ではないだろうか。どうしても見たい番組なら、ぼくはどうやっても見ようとするだろう(そこまでしても見たい番組があるかは別だが)。だったら、録画がなくってもやっていけるのではと考えたぼくは、そのときから録画をしなくなった。そして、今にいたる。
というわけで、どうしても見たい番組である「鎌倉殿の13人」のせい(せいっていうな)で、日曜は原稿が書けないことがよくある(責任転嫁にもほどがある)。
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いよいよ佳境に入ってきた「鎌倉殿の13人」だが、北条義時(小栗旬)が姉の北条政子とともに父・時政を排斥することになりそうだ。
「鎌倉殿の13人」のストーリーについて、万が一知らない人がいるといけないので、知らない方は以下の公式サイトを見てね。
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親子で争わないといけないとは実に哀しい話だが、それほど武士の成立には犠牲が必要だったということなのだろう。そう考えると、神話の成立にも親子の不和が関係している気もする。というわけで、出雲神話の話に入る。
その代表的な例は、やはりスサノオだろう。
スサノオはイザナギが最後に生んだ三貴士のひとりであり、海を治めるように父神からいわれたにもかかわらず、長い髭が胸に垂れ下がる年頃になっても泣きわめいていたそうだ。
高天原での問題行動も目に余るものだったらしく、みんなに懲らしめられて下界に落とされる。そこからのスサノオの出雲神話は英雄伝説としてよく知られている。どうも、出雲人はヤマタノオロチを倒してもらった恩義があるからか、スサノオに同情的である面は否めない。しかし、それを差し引いても、スサノオのぐれる気持ちもわからないでもない。スサノオの家庭環境はあまりいいとはいえない。
父親であるイザナギはイザナミと別れた後、禊(みそぎ)で最後に3貴子を生む。アマテラス、ツクヨミ、そしてスサノオである。アマテラスとツクヨミはイザナギが洗った目からお生まれになった。それはいいとしよう。スサノオは、なんと、イザナギの洗った鼻から生まれたというのである。
「お前には母はおらず、わしの鼻の中から生まれたのだ」
そう言われて、誰が「やったー」と思うのだろう。誰が鼻毛を通って、鼻水、鼻糞まみれの場所から生まれてくるだろう。「そんな、馬鹿な」とスサノオが思ったとしても当然である。普通、ぐれますよ、イザナギさん。
そんなわけで、ぐれにぐれたスサノオであったが、出雲に来てからはヤマタノオロチを退治して、櫛名田比売(くしなだひめ)と結婚し、そこに宮殿を建て、二人仲良く暮らしたそう。その場所が須賀という土地である。
そこでスサノオは日本で初めて和歌を作っている。
「八雲立つ 出雲八重垣 つまごみに 八重垣つくる その八重垣を」
さすが、以前はぐれていたとしても、高天原の貴公子なだけはある。その教養や、大したもの。はじめの頃を思えば、立派になったものである。
思えば、イザナギとの不仲が後のスサノオ伝説を作ったといっても過言ではない。そう考えると、神話の成立にイザナギとスサノオの不仲は必要なことだったのかもしれない。
さて、スサノオはすったもんだあって、出雲に降りてきて英雄神になったので、よかったよかったですんだが、すべての神様がそうであるとは限らない。
中には、それ育児放棄でないんですかという話も出てくる。
それは「播磨国風土記」のしかま郡・伊和里の項に述べられている。
大国主さん!?
さすがにこれはぐれますよ。イザナギさんに続き、あなたもですか?
ひょっとすると、大国主命の家庭にも問題があったのかもしれない。津々浦々に女を作っていたと噂され(実際に作っていた)、歌にもされたモテ神・大国主命である。火明命にも同情の余地があるのかもしれない。
しかし、その後、大国主命も改心したのか、後にこんな伝説を残している。
「出雲国風土記」の仁多郡三澤郷にこのような記述がある。
しかし、今回は火明命のときのような育児放棄はしない。よっぽど火明命の件で懲りたのかもしれないし、反省したのかもしれない。
阿遲須枳高日子根命(あぢすきたかひこねのみこと)をなんとか楽しませようと船に乗せて八十島めぐりに出かけている。
ひょっとして、また阿遲須枳高日子根命(あぢすきたかひこねのみこと)を捨てちゃうのか?
そうおもったみなさん、安心してください。
今回は大国主命も頑張っている。
しかしながら、大国主命の努力もむなしく、阿遲須枳高日子根命(あぢすきたかひこねのみこと)は泣き止むことはなかった。すると、今度は大国主命、夢で願掛けをするのだった。
「どうか阿遲須枳高日子根命(あぢすきたかひこねのみこと)を泣き止む方法を教えてください」
この神様はいつでも誰かに助けらることで有名な神様でもある。なんと、今回も夢が助けてくれる。
「御子が言葉をしゃべるようになる」と夢で告げられた大国主命。
目覚めるとすぐに阿遲須枳高日子根命(あぢすきたかひこねのみこと)のところに行く。すると、阿遲須枳高日子根命(あぢすきたかひこねのみこと)は「三澤(みさわ)」と言葉を発した。
「三澤」とはなんだと阿遲須枳高日子根命(あぢすきたかひこねのみこと)に尋ねると、御子は石川を渡り、坂の上に至って留まり、「ここです」とおっしゃった。すると不思議なことにその沢の水沼が現れ、そこで阿遲須枳高日子根命(あぢすきたかひこねのみこと)は沐浴をなさったという。
まぁ、何はともあれ、大国主命さん、今回は事なきを得てよかったね。
さて、仁多郡・三澤郷では阿遲須枳高日子根命(あぢすきたかひこねのみこと)の奇跡を記念して三澤神社が建てられている。祭神はもちろん、阿遲須枳高日子根命(あぢすきたかひこねのみこと)。
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今回も最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
よかったら、須我神社や三澤神社にもいらしてください。
ひょっとするとこじれた親子関係も修復できるかもしれませんよ
では、お待ちしています ♪
こちらでは出雲神話から青銅器の使い方を考えています。
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